に。」
 その時、椅子《いす》の上にあった外套《がいとう》がジョンドレットの姉娘の目に止まった。
「旦那《だんな》、」と彼女は言った、「外套をお忘れになっています。」
 ジョンドレットは恐ろしく肩をそばだて、燃えるような目つきで娘をじろりとにらめた。
 ルブラン氏はふり返って、ほほえみながら答えた。
「忘れたのではありません。それは置いてゆくのです。」
「おお私の恩人様、」とジョンドレットは言った、「実に情け深い旦那様、私は涙がこぼれます。せめて馬車までお供さして下さいませ。」
「外に出るなら、」とルブラン氏は言った、「その外套をお着なさい。ひどく寒いですよ。」
 ジョンドレットは二言と待たなかった。彼はすぐにその褐色《かっしょく》の外套を引っかけた。
 そしてジョンドレットが先に立って、三人は室《へや》を出て行った。

     十 官営馬車賃――一時間二フラン

 マリユスはその光景をすっかりながめた。しかし実際は何もはっきり見て取ることはできなかった。彼の目は若い娘の上に据えられており、彼の心は、彼女がその室に一歩ふみ込むや否や、言わば彼女をつかみ取り彼女をすっかり包み込んでしまっていた。彼女がそこにいる間、彼はまったく恍惚《こうこつ》たる状態にあって、あらゆる物質的の知覚を失い、全心をただ一点に集注していた。彼がながめていたものはその娘ではなくて、繻子《しゅす》の外套《がいとう》とビロードの帽子とをつけた光明そのものだった。シリウス星が室《へや》の中にはいってきたとしても、彼はそれほど眩惑《げんわく》されはしなかったであろう。
 若い娘が包みを開き、着物と毛布とをそこにひろげ、病気の母親に親切な言葉をかけ、けがした娘にあわれみの言葉をかけてる間、彼はその一挙一動を見守り、その言葉を聞き取ろうとした。その目、その額、その美貌《びぼう》、その姿、その歩き方を彼は皆知っていたが、その声の音色はまだ知らなかった。かつてリュクサンブールの園でその数語を耳にしたように思ったこともあったが、それも確かにそうだとはわからなかった。そしてもし彼女の声をきくならば、その音楽の響きを少しでも自分の心のうちにしまい込むことができるならば、十年ほど自分の生命を縮めても惜しくないとまで思った。けれどもジョンドレットの哀願の声やラッパのような嘆声に、彼女の声はすっかり消されてしまった。マ
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