父はまた言った。
 娘は呆気《あっけ》に取られて立っていた。
「わからねえのか。」と父はくり返した。「窓ガラスを一枚こわせと言うんだ。」
 娘はただ恐ろしさのあまり父の言葉に従って、爪先で背伸びをし、拳《こぶし》をかためて窓ガラスを打った。ガラスはこわれて、大きな音をして下に落ちた。
「よし。」と父は言った。
 彼は着実でまた性急だった。部屋のすみずみまで急いで見回した。
 彼の様子はちょうど、戦争が初まろうとする時に当たって、早くも最後の準備をする将軍のようだった。
 それまで一言も口をきかなかった母親は、ようやく立ち上がって、ゆっくりした重々しい声で尋ねた。その言葉は凍って出て来るかのようだった。
「あんた、何をするつもりだね?」
「お前は寝床に寝ていろ。」と男は答えた。
 その調子は考慮の余地を人に与えなかった。女房はそれに従って、寝床の上に重々しく身を横たえた。
 そのうちに、片すみですすり泣く声がした。
「何だ?」と父親は叫んだ。
 妹娘はなおすみっこにうずくまったまま、血にまみれた拳《こぶし》を出して見せた。窓ガラスをこわす時けがしたのである。彼女は母親の寝床のそばに行って、黙って泣いている。
 こんどは母親が身を起こして叫んだ。
「まあごらんよ。何てばかなことをさせたもんだね。ガラスなんかこわさしたから手を切ったんじゃないか。」
「その方がいい。」と男は言った。「初めからそのつもりだ。」
「なんだって、その方がいいって?」と女は言った。
「静かにしろ!」と男は答え返した。「俺は言論の自由を禁ずるんだ。」
 それから彼は自分が着ていた女のシャツを引き裂いて、細い布片をこしらえ、それで娘の血にまみれた拳《こぶし》を急いで結わえた。
 それがすむと、彼は満足げな目つきで自分の裂けたシャツを見おろした。
「おまけにシャツもだ。」と彼は言った。「なかなかいい具合に見える。」
 凍るような風が窓ガラスに音を立てて、室《へや》の中に吹き込んできた。外の靄《もや》も室にはいってきて、目に見えない指でぼーっとほごされるほの白い綿のようにひろがっていった。ガラスのこわれた窓からは、雪の降るのが見られた。前日聖燭節の太陽で察せられた寒気が、果たしてやってきたのである。
 父親はぐるりとあたりを見回して、何か忘れたものはないかと調べてるようだった。それから、古い十能を取上げて
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