仕事をしてるさまも見えなかった。何かの機械もなく、糸取り車もなく、何らの道具もなかった。ただ片すみに、怪しい鉄片が少しばかりあった。そういう陰鬱《いんうつ》な怠慢こそ、絶望の後にきたり、死の苦しみの前に来るものである。
 マリユスはしばしその惨憺《さんたん》たる室の内部をながめていた。それは墓の内部よりもいっそう恐ろしいものだった。そこでは、人の魂がうごめき人の生命があえいでるのが感じられるのだった。
 屋根裏の部屋、窖《あなぐら》、社会の最下層をはいまわるある貧人らがいる賤《いや》しい溝、それはまったくの墓場ではなく、むしろ墓場の控え室である。しかしながら、富者らがその邸宅の入り口に最も華美をつくすがように、貧者らのすぐそばにある死も、その玄関に最大の悲惨をこらすがように思われる。
 男は黙ってしまい、女は口もきかず、若い娘は息さえもしていないようだった。ただ紙の上をきしるペンの音ばかりが聞こえていた。
 やがて男は書く手を休めずつぶやいた。
「愚だ、愚だ、すべて愚だ!」
 ソロモンの警語([#ここから割り注]訳者注 空なるかな空なるかなすべて空なり![#ここで割り注終わり])をそのまま言いかえたその言葉に、女はため息をもらした。
「お前さん、いらいらしなさんなよ。」と彼女は言った。「身体でも悪くしちゃつまらないよ、あんた。あんな人たちにだれかまわず手紙を書くなんて、うちの人もあまり気がよすぎるというものよ。」
 悲惨のうちにあると、寒気のうちにいるように、人は互いに身体を近寄らせるが、心は互いに遠ざかるものである。この女はうち見たところ、心のうちにある愛情の限りをつくして亭主を愛していたらしいが、一家の上に押っかぶさった恐ろしい赤貧から来る互いの日々の口論のうちに、その愛も消えうせてしまったのであろう。亭主に対してはもはや愛情の灰のみしか、彼女のうちには残っていなかった。けれども、よく世にあるとおり、やさしい呼び方だけは消えずに残っていた。彼女はいつも亭主に言った。あんた[#「あんた」に傍点]、お前さん[#「お前さん」に傍点]、うちの人[#「うちの人」に傍点]、などと。それも心は黙っているのにただ口の先だけで。
 男はまた書き初めていた。

     七 戦略と戦術

 マリユスは胸をしめつけられるような思いがして、間に合わせのその一種の観測台からおりようとした
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