。美しい娘はその訳がわからず、ひそかな身振りでそのことを彼に伝えた。
「何という貞節さだろう!」とマリエスは言った。
八 老廃兵といえども幸福たり得る
われわれは貞節[#「貞節」に傍点]という語を発したことであるし、また何事をも隠さないつもりであるから、「彼のユルスュール」は恍惚《こうこつ》のうちにあるマリユスにきわめてまじめな苦しみを与えたことが一度あるのを、ここに述べなければならない。それは彼女が、ルブラン氏を促してベンチを去り道を逍遙《しょうよう》した幾日かのうちの、ある日のことだった。晩春の強い風が吹いて篠懸《すずかけ》の木の梢《こずえ》を揺すっていた。父と娘とは互いに腕を組み合わして、マリユスのベンチの前を通り過ぎた。マリユスはそのあとに立ち上がり、その後ろ姿を見送った。彼の心は狂わんばかりで、自然にそういう態度をしたらしかった。
何物よりも最も快活で、おそらく春の悪戯《いたずら》を役目としているらしい一陣の風が、突然吹いてきて、苗木栽培地《ペピニエール》から巻き上がり、道の上に吹きおろして、ヴィルギリウスの歌う泉の神やテオクリトスの歌う野の神にもふさわしいみごとな渦巻きの中に娘を包み込み、イシスの神の長衣よりいっそう神聖な彼女の長衣を巻き上げ、ほとんど靴下留《くつしたど》めの所までまくってしまった。何とも言えない美妙なかっこうの片脛《かたはぎ》が見えた。マリユスもそれを見た。彼は憤慨し立腹した。
娘はひどく当惑した様子で急いで長衣を引き下げた。それでも彼の憤りは止まなかった。――その道には彼のほかだれもいなかったのは事実である。しかしいつもだれもいないとは限らない。もしだれかいたら! あんなことが考えられようか。彼女が今したようなことは思ってもいやなことである。――ああしかし、それも彼女の知ったことではない。罪あるのはただ一つ、風ばかりだ。けれども、シェリュバンの中にあるバルトロ的気質が([#ここから割り注]訳者注 フィガロの結婚中の人物で、前者は女に初心な謹厳な少年、後者は嫉妬深い後見人[#ここで割り注終わり])ぼんやり動きかけていたマリユスは、どうしても不満ならざるを得ないで、彼女の影に対してまで嫉妬《しっと》を起こしていた。肉体に関する激しい異様な嫉妬の念が人の心のうちに目ざめ、不法にもひどく働きかけてくるのは、皆そういうふうに
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