pルトのことを話す時、心底に憎悪の念がありさえすれば、すすり泣こうと笑い出そうと勝手だった。マリユスもいわゆる「あの男」について、頭の中にそれ以外の考えをかつて持たなかった。またそういう考えは、彼の性質のうちにある執拗《しつよう》さにからみついていた。彼のうちにはナポレオンを憎む頑固《がんこ》な小僧がいた。
歴史を読みながら、ことに種々の記録や材料のうちに歴史を調べながら、マリユスの目からナポレオンを隠していた被《おお》いはしだいに取れてきた。彼は何かある広大なるものを瞥見《べっけん》した、そして他の事におけると同じようにナポレオンについても、今まで思い違いをしていたのではないかと疑った。日がたつにつれてますますはっきり見えてきた。そして初めはほとんど不本意ながら、後にはあたかも不可抗な幻にひかされたがように夢中になって、徐々に一歩一歩と、最初は暗い階段を、次にはおぼろに照らされた階段を、最後には光に満ちた燦然《さんぜん》たる心酔の階段を、彼はよじのぼり初めた。
ある夜、彼はひとりで屋根裏にある自分の小さな室《へや》にいた。蝋燭《ろうそく》がともっていた。彼はテーブルに肱《ひじ》をついて開いた窓のそばで本を読んでいた。各種の夢想が空間から浮かんできて、彼の考えに混入した。何という大なる光景で夜はあるか! どこから来るとも知れぬほのかな響きが聞こえる。地球より二百倍も大きい火星が炬火《たいまつ》のようにまっかに輝いているのが見える。大空は黒く、星辰はひらめいている。驚くべき光景である。
マリユスは大陸軍の報告書を、戦場において書かれたホメロス的な文句をその時読んでいた。間をおいては父の名前が出てき、絶えず皇帝の名前が出てきた。大帝国の全局が現われてきた。彼は自分のうちに、潮のようなものがふくれ上がりわき上がってくるのを感じた。時とすると、息吹《いぶき》のように父が自分のそばを通って、耳に何かささやくかと思われた。彼はしだいに異常な気持ちになっていった。太鼓の音、大砲のとどろき、ラッパの響き、歩兵隊の歩調を取った足音、騎兵の茫漠《ぼうばく》たる遠い疾駆の音、などが聞こえてくるかと思われた。時々彼は目を天の方へ上げて、きわまりなき深みのうちに巨大な星座の輝くのをながめ、それからまた書物の上に目を落として、そこにまた他の巨大なるものが雑然と動くのを見た。彼の胸はしめつ
前へ
次へ
全256ページ中64ページ目
小説の先頭へ
文字数選び直し
ユゴー ヴィクトル の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ
登録
ご利用方法
ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング