蝋燭《ろうそく》の薄暗い光で、そこに横たわってる青ざめた大佐の頬《ほお》の上に、もはや生命のない目から流れ出た太い涙が見えていた。目の光はなくなっていたが、涙はまだかわいていなかった。その涙こそ、息子の遅延のゆえであった。
 マリユスはこれを最初としてまた最後として会ったその男をじっとながめた、尊むべき雄々しいその顔、もはや物の見えないその開いた目、その白い髪、そして頑丈《がんじょう》な手足、その手や足の上には、剣の傷痕《きずあと》である黒い筋と弾丸の穴である赤い点とが、そこここに見えていた。また彼は、神が仁慈をきざんだその顔の上に勇武をきざみつけてる大きな傷痕《きずあと》をながめた。そして彼は、その男が自分の父であり、しかももはや死んでいることを考え、慄然《りつぜん》として立ちつくした。
 しかし彼が感じた悲哀は、およそ人の死んで横たわってるのを見るおりに感ずる普通の悲哀だった。
 悲痛が、人の心を刺す悲痛が、その室《へや》の中にあった。下女は片すみで嘆いており、司祭は祈祷《きとう》しながら嗚咽《おえつ》の声をもらしており、医者は目の涙をふいていた。死骸《しがい》自身も泣いていた。
 その医者と牧師と女とは、一言も発せず、痛心のうちにマリユスをながめた。彼はその間にあってひとり門外漢だった。マリユスはほとんど心を動かしていなかった、そして自分の態度をきまり悪く感じ、また当惑した。彼は手に帽子を持っていたが、悲しみのためそれを手に保つ力もなくなったと見せかけるため、わざと下に取り落とした。
 と同時に彼は一種の後悔の念を感じ、自らその行ないを卑しんだ。しかしそれは彼が悪いのだったろうか。いかんせん、彼は父を愛していなかったではないか!
 大佐の遺産とては何もなかった。家具を売り払っても葬式の費用に足るか足らずであった。下女は一片の紙を見つけて、それをマリユスに渡した。それには大佐の手で次のことが認めてあった。

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予が子のために[#「予が子のために」に傍点]――皇帝はワーテルローの戦場にて予を男爵に叙しぬ。復古政府は血をもって贖《あがな》いたるこの爵位を予に否認すれども、予が子はこれを取りこれを用うべし。もとより予が子はそれに価するなるべし。
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 その裏に大佐はまた書き添えていた。

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なおこ
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