丘の間をつきぬけているので、所々で峡谷をなしている。一八一五年にも今日と同じく、その道はジュナップの街道とニヴェルの街道との間でモン・サン・ジャンの高地の上を貫いていた。ただ、今日ではその平地の面と同じ高さになっているが、当時は凹《くぼ》い道であった。記念の塚を築くためにその両方の斜面は切り取られてしまったのである。その道は、今日もそうだが、昔も大部分は塹壕《ざんごう》の形をしていた。それも時としては約十二尺もあろうというほど深い塹壕であって、そのあまり急な斜面の土は驟雨《しゅうう》のために所々くずれ落ち、ことに冬にははなはだしかった。種々の事変までも生じた。ブレーヌ・ラルーの入り口の方では非常に狭かったので、一人の通行人が馬車に押しつぶされてしまったほどである。墓地のそばに立ってる石の十字架はそれを示すものであって、それによると、死者の名前はブラッセルの商人ベルナール[#「ブラッセルの商人ベルナール」に傍点]・ド[#「ド」に傍点]・ブリー氏[#「ブリー氏」に傍点]であり、その事変が起こったのは一六三七年二月[#「一六三七年二月」に傍点]である。(碑銘は次のとおりである――最善最大なる
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