の墓はない。フランスにとっては、その平原すべてが墓地である。高さ百五十尺周囲半マイルの塚を築くに使われた何千車という土のおかげで、今日モン・サン・ジャンの高地にはゆるやかな坂で上ってゆくことができる。しかし戦いの当時その高地は、ことにラ・エー・サントの方面において、きわめて険阻で上るに困難であった。その勾配はそこでは非常に急だったので、イギリスの砲兵隊は下の方に、戦闘の中心地である谷合の底にある百姓家を見ることができないほどだった。一八一五年六月十八日には、雨のためにその険しさはいっそう増し、泥濘《でいねい》のためにその登攀《とうはん》は、いっそう困難になり、単によじのぼるばかりでなく泥濘に足を取られまでした。高地の上に沿って、遠くから見たのでは気づかれない一種の溝《みぞ》が走っていた。
その溝はいったい何であったか? それを言ってみれば次のようなわけである。ブレーヌ・ラルーはベルギーの一つの村であり、オーアンもやはりその一つの村である。そして二つとも土地の起伏の間に隠れ、約一里半ばかりの道で相通じている。その道は高低不規則な平原を横切っていて、しばしば畝溝《あぜみぞ》のようになって
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