れた起原であり、また法律上に認可された経過である。その最初の修道院は、カセット街に、ブークおよびシャトーヴィユー両夫人の金によって「新しく建て」られた。
この会派はかくのごとくして、いわゆるシトーのベネディクト修道女会とは別なものであった。これはサン・ジェルマン・デ・プレの修道院長から起こったもので、サクレ・クールの修道女会がセジュー派の管長から起こされ、シャリテの修道女会がラザール派の管長から起こされたのと同じである。
われわれがその内部を述べてきたあのプティー・ピクプュスのベルナール修道女会も同じく、このサン・サクルマン派とは全く別なものであった。一六五七年に、法王アレキサンドル七世は特別の宸翰《しんかん》をもって、サン・サクルマンのベネディクト修道女らのように常住礼拝を行なうことを、プティー・ピクプュスのベルナール修道女らにも許可した。しかし両派は依然として別なものであった。
十一 プティー・ピクプュスの終わり
王政復古の初め頃から、プティー・ピクプュスの修道院は衰微してきた。十八世紀の後には、すべての宗教的団体とともに一般に秩序の終滅をきたしたのであって、こ
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