だ一度で四百フラン余りの薬代も払ったことがありますが、神様のためと思えば少しぐらいはしてやらなければなりません。父親も母親もありませんので、私が手一つで育て上げました。私とてあの児に食わせ、また自分で食うだけのパンは持っております。実際私はあの児を大事にしています。まあ人情が出てきたんですな。私はばか者で、一向理屈はわかりません。がただかわいいんです。家内は活発な方ですが、やはりかわいがっています。ごらんのとおり、自分たちの児のようにしています。あれが家の中でしゃべくってるのが楽しみでして。」
 男はなお彼をじっとながめていた。彼は続けた。
「失礼ではございますが旦那、通りがかりの人に自分の児をこうして渡してしまう者もありますまい。私の申すところも、もっともでございましょう。そこで、旦那はお金持ちで、お見受けしたところごくりっぱな方で、それがあの児のためになるかどうかなどと申すのではありませんが、それでもよく事情はわかっていませんではね。おわかりでもありましょうが、まああれをやるとしまして、かりに私情を犠牲にしますとしてもですな、あれがどこへ行くかぐらいは知りたいではありませんか。見失いたかあありませんよ。どこにいるかぐらいは知っていて、時々は会いにも行きましょうし、またあの児も、育て親があって自分を見ていてくれてるということを知るというわけです。世間にはずいぶん思いがけないことも起こりますからね。私は旦那《だんな》の名前さえ存じませんし、あれを連れてゆかれますとしたら、あああのアルーエットはいったいどこへ行ったんだろうと、私はただ嘆息するほかはありませんからね。何かちょっとした書き物でも、まあいわば通行券なりと、それを拝見して置きたいと思いますが。」
 男はいわば相手の本心の底までも貫くような目つきでじっと彼をながめながら、おごそかな確乎《かっこ》たる調子で答えた。
「テナルディエ君、パリーから五里くらい離れるのに通行券を持ってくる者はいません。コゼットを連れて行くと言ったら連れてゆくだけのことです、それだけです。私の名前も、私の住所も、またコゼットがどこへ行くかも、君に知らせる必要はありません。私はあの児を生涯《しょうがい》再び君に会わせまいというつもりです。私はあの児の繩《なわ》を解いてやって、逃がそうというのです。それでどうですか。承知ですかそれとも不承知ですか。」
 悪魔や妖鬼《ようき》などが何かのしるしで自分よりまさった神のいることを知るように、テナルディエは相手がなかなか手ごわいことをさとった。それはほとんど直覚だった。彼はそれを明確|怜悧《れいり》な機敏さでさとった。前夜、馬方らと酒をのみながら、煙草《たばこ》をふかしながら、卑猥《ひわい》な歌を歌いながら、彼は猫のように覘《うかが》い数学家のように研究して、始終その見なれぬ男を観察していたのである。彼は同時に自分のためと楽しみと本能とから男を窺《うかが》い、あたかも金で頼まれたかのように偵察《ていさつ》していたのである。そしてその黄色い上衣の男の一挙手一投足はことごとく彼の目をのがれなかった。男がコゼットに対する興味を明らかに示さない前から、テナルディエは既にそのことを見破っていた。その老人の奥深い目つきが絶えずコゼットの方へ向けらるるのを見て取っていた。何ゆえにそう興味を持つのだろう? いったい何者だろう? 金入れにはいっぱい金を持ちながら、何ゆえにああ見すぼらしい服装《なり》をしているのだろう? そういう問題を彼は自ら提出しながら、解決ができず、いら立っていた。彼はそのことを夜通し考えた。あの男はコゼットの父親であるわけはない。では祖父ででもあろうか? それならばなぜすぐに名乗らないのであろうか? 権利がある者は、すぐにそれを示すはずである。あの男は明らかにコゼットに対しては何らの権利も持っていないに違いない。するといったい何者だろう? テナルディエはどう推測していいかわからなくなってしまった。彼はすべてを垣間見《かいまみ》たが、ついに何物もはっきり見付け得なかった。とはいうものの、その男にあれこれとしゃべり立てながら、これには何か秘密があるし、男は身分を隠したがっているのだなと思って、彼は自分の強味を感じた。ところが男の明晰《めいせき》確乎《かっこ》たる返答に出会って、その不思議な男はただ不思議なばかりで何らとらうべきところがないのを見た時、彼は自分の弱味を感じた。彼は少しもそういうことを予期していなかった。彼の推測はことごとく破れてしまった。彼はあらゆる考えを集中してみた。そして一瞬間、考慮をめぐらした。彼は一見して前後の事情を判断し得るような人物であった。で今や単刀直入に事を運ぶべき場合であると考えた。他人の目にはわからなくともそれと察し得らるる危急
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