、ただ通りかかったのです。それだけです。……そして、」と彼はつけ加えた、「勘定は?」
 上さんは何とも答えないで、折り畳んだ書き付けを彼に差し出した。
 男はそれをひろげてながめた。しかし明らかに彼の注意は他の方へ向いてるらしかった。
「お上さん、」と彼は言った、「この土地では繁昌《はんじょう》しますかね。」
「どうにか旦那《だんな》。」と上さんは答えながら、男が別に何とも言わないのでぼんやりしてしまった。
 彼女は悲しそうな嘆くような調子で続けて言った。
「どうも、不景気でございますよ。それにこの辺にはお金持ちがあまりありませんのです。田舎《いなか》なもんですからねえ。時々は旦那のような金のある慈悲深い方がおいで下さいませんではね。入費《いりめ》も多うございますし、まああの小娘を食わしておくのだってたいていではございません。」
「どの娘ですか。」
「あの、御存じの小娘でございますよ、コゼットという。この辺では皆さんにアルーエット([#ここから割り注]訳者注 ひばり娘の意[#ここで割り注終わり])と言われていますが。」
「ああなるほど。」と男は言った。
 上さんは続けた。
「百姓ってなんてばかなんでございましょう、そんな綽名《あだな》なんかをつけて。あの児は雲雀《ひばり》というよりか蝙蝠《こうもり》によけい似ていますのに。ねえ旦那、私どもは人様に慈善をお願いすることなんかいたしませんが、自分で慈善をするだけの力はございません。一向もうけはありませんのに、出すことばかり多いんで。営業税、消費税、戸の税、窓の税、付加税なんて! 政府から大変な金を取られますからねえ。それに私には自分の娘どもがいるんですから、他人の子供を育てなければならないというわけもありませんのです。」
 男はつとめて平気を装って口を開いたが、その声はなお震えを帯びていた。
「ではその厄介者を連れていってあげましょうか。」
「だれを、コゼットでございますか。」
「そうです。」
 上さんの赤い激しい顔は醜い喜びの表情に輝いた。
「まあ旦那《だんな》、御親切な旦那! あれを引き受けて、引き取って、連れてって、持ってって下さいまし、砂糖づけにして、松露煮にして、飲むなり食うなりして下さいまし。まあ恵みぶかい聖母様、天の神様、何てありがたいことでございましょう。」
「ではそうしましょう。」
「本当ですか、連れてって下さいますか。」
「連れてゆきます。」
「あのすぐに?」
「すぐにです。呼んで下さい。」
「コゼット!」と上さんは叫んだ。
「ですが、」と男は言った、「勘定は払わなければなりません。いくらですか。」
 彼は勘定書を一目見たが、驚きの様子をおさえることはできなかった。
「二十三フラン!」
 彼は上さんをながめて、また繰り返した。
「二十三フラン!」
 そう繰り返した言葉の調子のうちには、一方に驚きと他方には疑惑がこもっていた。
 ちょっと間《ま》があったので上さんはその打撃に応ずることができた。彼女はしかと答えた。
「さようでございます。二十三フランです。」
 男はテーブルの上に五フランの貨幣を五つ置いた。
「娘をつれておいでなさい。」と彼は言った。
 その時テナルディエは室《へや》のまんなかに出てきて、そして言った。
「旦那《だんな》の勘定は二十六スーでいい。」
「二十六スー!」と女房は叫んだ。
「室代が二十スー、」とテナルディエは冷ややかに言った、「そして夕食が六スー。娘のことについては少し旦那に話がある。席をはずしてくれ。」
 女房はその意外な知恵のひらめきを見てすっかり参ってしまった。千両役者が舞台に現われたような気がした。そして一言も返さないで、室から出て行った。
 二人だけになると、テナルディエは客に椅子をすすめた。客は腰をおろした。テナルディエは立っていた。そして彼の顔は、人の好《よ》さそうな質朴らしい特殊な表情を浮かべた。
「旦那、」と彼は言った、「まあお聞き下さい。私はまったくあの児がかわいいんです。」
 男は彼をじっと見つめた。
「どの児です?」
 テナルディエは続けて言った。
「妙なもんですよ、心をひかれるなんて。おや、この金はどうしました。まあこれはお納め下さい。で私はその娘がかわいいんでしてね。」
「いったいだれのことです。」と男は尋ねた。
「なに、うちのコゼットですよ。旦那《だんな》はあれを連れてってやろうとおっしゃるんでしょう。そこで、正直なところを申し上げると、まあ旦那がりっぱな方だというのと同じくらい本当のことを申せばですな、実は私はそれに不同意なんです。あの児がいないと物足りませんでね。ごく小さい時分から育てましたんでね。それは金もかかりますし、よくないところもありますし、私どもに金はありませんし、実際のところ、あれの病気にはた
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