な場合に大将軍らが決行することを、彼はついに断行した。彼は砲門を隠した幕をにわかに引き払った。
「旦那《だんな》、」と彼は言った、「私は千五百フランいただきたいんです。」
男は脇《わき》のポケットから黒皮の古い紙入れを出し、それを開き、紙幣を三枚引き出して、テーブルの上に置いた。それから、その紙幣の上を大きな親指で押さえて、亭主に言った。
「コゼットをお呼びなさい。」
さてそういうことが行なわれてる間に、コゼットは何をしていたか?
その朝コゼットは目をさますと、木靴の所へ走って行った。彼女はそこに金貨を見いだした。それはナポレオン金貨ではなく、王政復古のごく新しい二十フラン金貨であって、表には月桂冠《げっけいかん》の代わりに、プロシア式の小さな辮髪《べんぱつ》が刻んであった。コゼットは目がくらむような気がした。彼女の運命は彼女を眩惑し初めた。彼女は金貨がどういうものであるか知らなかった。まだ一度も金貨を見たことがなかった。彼女はそれを盗みでもしたように急いでポケットの中に隠した。けれどもまさしく自分のものであることを感じていた。だれがそれを自分にくれたかをも察していた。一種の恐ろしさに満ちた喜びを感じていた。彼女は満足であった。がことに惘然《ぼうぜん》としていた。かくもりっぱな美しい品々は、現実のものとは思えなかった。人形は彼女をこわがらせ、金貨は彼女をこわがらした。彼女はそれらの驚くべきものの前に何となく身を震わした。ただあの見知らぬ男だけが彼女をこわがらせなかった。いな、かえって彼女の心を落ち着けさした。既に前夜から、驚きのうちにまた眠りのうちに、彼女はその小さな子供心にも、年取った貧乏な悲しげな様子をしながら金持ちで慈悲深いその男のことを、考えまわしていた。その老人に森の中で出会ってから、すべてが一変したように彼女には思われた。空飛ぶ一羽の小さな燕《つばめ》よりもなお不仕合わせなコゼットは、母の影に翼の下に身を隠すということがどんなものであるか、かつて知らなかった。五年この方、すなわち彼女の記憶にある限りにおいて、あわれな小娘の彼女はたえず震えおののいていた。いつも不幸の鋭い寒風の下に裸でさらされていた。ところが今、彼女は身に着物をまとったような心地がした。以前は彼女の心は凍えていたが、今は暖くなっていた。彼女はもうテナルディエの上さんをそう恐れはしなかった。もうただ一人ではなかった。だれかがそこにいてくれた。
彼女はきまった朝の仕事に急いで取りかかった。自分の身につけてるルイ金貨の方へ、前夜十五スー銀貨を落とした同じ胸掛けのポケットにはいってるルイ金貨の方へ、しきりに気を取られた。彼女はあえてそれに手は触れなかった。けれども、五分間もじっとそれのことを考えてることがあった、あえて言わなければならないが、舌をだらりと出したまま。階段を掃除《そうじ》しながらも、手を休めてそこにじっとたたずみ、箒《ほうき》のこともまた何もかも世の中のことを忘れてしまって、自分のポケットの底に輝いてるその星を心で見つめた。
そういうふうにして考え込んでる時だった。テナルディエの上さんが彼女の所へやってきた。
亭主の言いつけで彼女はコゼットをさがしにきたのであった。不思議にも彼女は打ちもしなければどなりつけもしなかった。
「コゼット、」と彼女はほとんどやさしく言った、「すぐにおいで。」
間もなくコゼットは天井の低い広間にはいってきた。
見知らぬ男は、携えていた包みを取り上げて、それを解いた。中には、小さな毛織りの長衣、胸掛け、綿麻の下着、裾着、肩掛け、毛糸の靴下、靴、すべて八歳の小娘に要するいっさいの衣装がはいっていた。みな色は黒であった。
「さあお前、」と男は言った、「これを持って行ってすぐに着ておいでなさい。」
日が出ようとする頃、戸をあけ初めたモンフェルメイュの人々は、見すぼらしい服装《なり》をした老人が、腕に薔薇色《ばらいろ》の大きな人形を抱えた喪服の小娘の手を引いて、パリー通りを歩いてゆくのを見た。彼らはリヴリーの方へ進んで行った。
それはあの旅客とコゼットであった。
だれもその男を知ってる者はなかった。またコゼットも今はぼろを着ていなかったので、多くの者はそれと気づかなかった。
コゼットはそこを立ち去りつつあった。だれとともに? 自分でもそれを知らなかった。どこへ向かって? 自分でもそれを知らなかった。ただ彼女の知っていたことは、今や自分はテナルディエの飲食店をあとにしているということのみだった。だれも彼女に別れを告げようとするものもいなかった。また彼女もだれに別れを告げようとも思わなかった。憎み憎まれたその家から彼女は出て行った。
あわれなやさしき娘よ、その心はこれまでただ圧迫をのみ受けていたのである!
前へ
次へ
全143ページ中65ページ目
小説の先頭へ
文字数選び直し
ユゴー ヴィクトル の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ
登録
ご利用方法
ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング