こには一つの人影もなく、獣の姿があり、またおそらく化け物の姿もあった。彼女はじっと透かし見た。草の中を歩き回る獣の足音が聞こえた。樹木の間をうろついてる化け物の姿がはっきり見えた。その時彼女はまた桶の柄《え》を手に取り上げた。恐怖は彼女を大胆になしたのである。「かまやしない!」と彼女は言った、「水はなかったと言ってやろう。」そして彼女は覚悟して、またモンフェルメイュの村の中に戻って行った。
百歩ばかり引き返すと、彼女はまた立ち止まって、頭をかき初めた。こんどはテナルディエの上《かみ》さんの姿が見えてきた。その恐ろしい姿は、山犬のような口をして、目は怒りに[#「怒りに」は底本では「燃りに」]燃え立っていた。娘は自分の前と後ろとを悲しい目つきで見やった。どうしたらいいだろう? どうなるだろう? どちらへ行ったものだろう? 前にはテナルディエの上さんの姿があり、後ろには夜と森とのいろんな化け物がいた。がついに彼女はテナルディエの上さんの姿の前から後にしざった。彼女はまた泉へ行く道を取って、走り出した。走りながら、モンフェルメイュの村を出て、走りながら森の中にはいり、もう何にもながめず、何にも耳を貸さなかった。息が切れた時ようやく走るのをやめたが、なお続けて進んだ。無我夢中でただ前へと進んでいった。
走りながらも彼女は泣きたくなっていた。
森の夜の震えが全く彼女をとり囲んでしまった。彼女はもう何にも考えなかった。何にも見なかった。広漠たる夜がその少女に顔を面していた。一方はいっさいの影、一方は眇《びょう》たる一原子にすぎなかった。
森の縁から泉まではわずか七八分の距離であった。コゼットはしばしば昼間通ったことがあるので、その道をよく知っていた。で不思議にも道に迷いはしなかった。本能の一部が残っていて、彼女を漠然《ばくぜん》と導いたのである。その間彼女は、右にも左にも目を向けなかった、木の枝の間や藪《やぶ》の中に何かが出てきはしないかと恐れたので。そして彼女は泉の所へ達した。
それは赤土交じりの地面に水で掘られた深さ二尺ばかりの天然の狭い水たまりであった。まわりには苔《こけ》がはえ、アンリ四世のえり飾りと呼ばるる長い縞《しま》のある草が茂り、また幾つかの大きな石が舗《し》いてあった。一条の水が、静かなささやかな音を立ててそこから流れ出ていた。
コゼットは息をつく間も待たなかった。まっくらだったけれど、彼女はその泉にはきなれていたのである。いつも身のささえにする泉の上にさし出た若い樫《かし》の木を、暗やみのうちに左手で探って、その一本の枝を見つけ、それにつかまって身をかがめ、桶《おけ》を水の中につけた。その時彼女は非常に気がたかぶっていて、平素の三倍も力が出ていた。しかるにそうして身をかがめてるうちに、胸掛けのポケットの中のものを泉に落としたのは気がつかなかった。十五スー銀貨は水の中に落ちた。コゼットはそれを見もしなければ、その落ちる音をも耳にしなかった。彼女はほとんど一杯になった桶を引き上げて、それを草の上に置いた。
それをしてしまうと、彼女はすっかり疲れ切ったのを感じた。すぐにも立ち去りたかったけれど、桶に水をくむことにあまり骨折ったので、もう一歩も踏み出す力がなかった。仕方なしにそこにすわってしまった。草の上に身を落として、そのままじっとうずくまった。
彼女は目を閉じた。それからまた目を開いた。なぜか自分でもわからなかったが、他に仕様もなかったのである。
彼女のそばには、桶の中に揺られてる水が輪を描いて、それがブリキの蛇《へび》のように見えていた。
頭の上には煙の壁のような広い黒雲が空をおおうていた。暗やみの陰惨な面が漠然《ばくぜん》と娘の上におおいかぶさっていた。
木星は彼方《かなた》の空に沈みゆこうとしていた。
娘は途方にくれた目をあげて、名も知らぬその大きな星をながめ、そして恐ろしくなった。実際その遊星は、その時地平線のごく近くにあって、たなびいた深い靄《もや》を透かしてみると、恐ろしい赤い色に見えていた。そしてまた変に赤く染められた靄は、その星をいっそう大きく見せていた。ちょうどまっかな傷口のようなさまだった。
寒い風が平野の上を渡っていた。森はまっくらで木の葉のそよぎもなく、夏の間の漠然たるさわやかな明るみもなかった。大きな枝が恐ろしくつき出ていた。やせた変な形の藪《やぶ》が木立ちの薄い所で音を立てていた。高い叢《くさむら》は北風の下に針のようにうごめいていた。蕁麻《いらぐさ》はよじれ合って、餌食《えじき》を求めている爪をそなえた長い腕のようだった。枯れた雑草が風に吹かれてすみやかにわきを飛んでいったが、何か追っかけてくるものを恐れて逃げてゆくがようだった。どこを見ても、ただ広漠《こうばく》たる痛
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