ましいありさまだった。
暗黒は人の心を惑わすものである。人には光が必要である。だれでも昼に相反するものの中に身を投ずる者は、心をしめつけられる思いがする。目に暗黒を見る時、精神は惑わしを見る。日食のうち、夜のうち、文目《あやめ》もわかたぬ暗がりのうちには、最も強い人々にとってさえ不安がある。夜ただ一人森の中を歩いて戦慄《せんりつ》しない者はない。影と木立ち、二つの恐ろしい密層。現実の幻がそのおぼろなる深みのうちに現われてくる。想像にも及ばないものが、スペクトルのごとき明るさで数歩前の所に浮き出してくる。眠れる花の悪夢のごときある漠然《ばくぜん》たる捕捉すべからざるものが、空間のうちにあるいは自分の頭のうちに浮かんでくるのが見える。地平線には恐ろしい姿のものがいる。まっ黒な大きい空洞《くうどう》の気が胸にはいってくる。自分の後ろが恐ろしくなってふり返りたくなる。夜の空虚、荒々しい姿になった事物、進むに従って消散する黙々たる物の横顔、髪をふり乱したようなまっくらなもの、いら立った叢《くさむら》、青白い水たまり、滅亡と悲愁との反映、沈黙の広大な墓場、実際にいるかも知れない見も知らぬ変化《へんげ》、傾いている不思議な木の枝、恐ろしい樹木の胴体、震えている長い雑草の茎、そういうものに対してはだれも身を護る術がない。いかに大胆なる者も、身を震わさぬ者はなく、苦悩の身に迫るのを覚えない者はない。あたかも自分の心が影ととけ合ってるかのように、人はある嫌悪《けんお》すべきものを感ずる。そしてかく心の底まで暗黒に浸されることは、ことに子供にとっては名状すべからざる陰惨の気を与うるものである。
森は天の黙示である。そして小さな霊魂の翼の羽ばたきも、その奇怪な森の円天井の下にあっては、臨終の苦悶《くもん》の音を発する。
何を感じているのかコゼットは自分でもよくわからなかったが、ただ自然の広大な暗黒からつかまれてるような気がした。彼女をとらえているものはもはや単に恐怖のみではなかった。恐怖よりもなお恐ろしい何かであった。彼女は震え上がった。彼女を心の底まで凍らしたその戦慄はいかに異常なものであったか、それを言い現わすには言葉も到底および難い。彼女の目は凶暴になっていた。彼女は翌日もきっと、また同じ頃にそこに戻ってこないではおれないだろうというような気がしていた。
その時一種の本能から、その訳のわからないしかし恐ろしい不思議な状態からのがれるために、彼女は大きい声で、一、二、三、四、と十まで数え初めた。そしてそれが終わるとまた初めからくり返した。そのために彼女はようやく周囲の事がらの本当のありさまを感ずることができた。水をくむ時にぬらした手に寒さを感じた。彼女は立ち上がった。するとまた恐ろしくなってきた。おさえることのできない自然の恐怖の念がまた襲ってきた。彼女はもうただ一つの考えきり持たなかった。逃げ出すこと。森を通りぬけ、野を横ぎり、人家のある所まで、窓のある所まで、火のともった蝋燭《ろうそく》のある所まで、足にまかして逃げのびること。前にある桶《おけ》が彼女の目についた。彼女は非常にテナルディエの上さんを恐《こわ》がっていたので、水の桶をすてて逃げ出すことはなしかねた。彼女は両手に桶の柄をつかんだ。そしてようやくのことでそれを持ち上げた。
そのようにして彼女は十歩余り進んだが、桶は水がいっぱいで重かったので、それをまた地面におろさなければならなかった。彼女はちょっと息をついた。それからまた桶を持ち上げて、再び歩き出したが、こんどは前よりも少し長く歩いた。けれどもやはり立ち止まらなければならなかった。しばらく休んだ後にまた歩き出した。前の方に身をかがめて、頭をたれて、老人のようにして歩いた。桶の重さは、彼女のやせた腕を引っぱり硬《こわ》ばらした。鉄の柄は、彼女の小さなぬれた手を麻痺《まひ》させ凍えさしてしまった。時々彼女は立ち止まらなければならなかった。そして立ち止まるたびごとに、桶からこぼれる冷たい水は彼女の露《あら》わな脛《はぎ》の上に流れた。そしてそれも、森の奥で、夜中に、冬に、人の目を遠く離れた所においてだった。そして彼女はわずか八歳の子供だった。その悲しいありさまをながめていたのは、その時ただ神のみであった。
そしてまたきっと彼女の母も、ああ!
なぜかなれば、墳墓の中で死者の目を開かしめるようなことも世にはあるものである。
彼女は一種の痛ましい嗄《しわが》れた音を立てて息をしていた。すすりなきがこみ上げてきて喉《のど》がつまりそうだった。けれど泣くこともなし得なかった。それほど彼女は、遠くにいてもテナルディエの上さんを恐《こわ》がっていた。テナルディエの上さんがいつも目の前にいるように考えるのは、彼女の習慣となっていた。
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