期に関連したもので、たとえば、ナティヴィテ長老(降誕)、コンセプシオン長老(受胎)、プレザンタシオン長老(奉献)、パッシオン長老(受難)などのように。けれども、聖者にちなんだ名前も禁じられてるのではない。
 修道女らに会う時には、ただその口だけしか見られない。皆黄色い歯をしている。決して楊枝《ようじ》はこの修道院に入れられない。歯を磨くことは滅落の淵に臨むことである。
 彼女らは何物に対しても私の[#「私の」に傍点]という言葉を使わない。自分のものというのは何もなく、また何物にも執着してはいけないのである。彼女らはすべてを私どもの[#「私どもの」に傍点]という。私どもの面紗《かおぎぬ》、私どもの念珠。自分の着ているシャツのことでも私どものシャツ[#「私どものシャツ」に傍点]と言うに違いない。時としては、祈祷《きとう》書だの遺物だの聖牌《せいはい》だの何かちょっとしたものに愛着することがある。けれどもそれに愛着し初めたことを気づいた時には、直ちにそれを捨てなければならない。彼女らは聖テレサの言葉を記憶していた。ある貴婦人が聖テレサの修道会にはいる時に、「私がごく大事にしています聖書を家に取りにやることを許して下さいませ、」と言った時、聖テレサは答えた。「あああなたは何かを大事にしていらっしゃるのですか[#「あああなたは何かを大事にしていらっしゃるのですか」に傍点]。それならば私どもの仲間におはいり下さいますな[#「それならば私どもの仲間におはいり下さいますな」に傍点]。」
 閉じこもること、そして自分の所[#「自分の所」に傍点]を持ち自分の室[#「自分の室」に傍点]を持つこと、それはすべての者に禁じられている。彼女らはうち開いた分房にはいっている。互いに出会う時には、一人が言う「祭壇の聖体に[#「祭壇の聖体に」に傍点]頌讃《しょうさん》と礼拝とがありまするよう[#「礼拝とがありまするよう」に傍点]。」すると、も一人は答える、「永遠に[#「永遠に」に傍点]。」また一人が他の者の分房を訪れる時にも、同じようなあいさつをする。扉《とびら》に人の手が触れると、向こうから急いで言われるやさしい声が聞こえる、「永遠に!」。あらゆる実際的仕事と同じく、それも習慣のために機械的になっている。そして一人がかなり長い「祭壇の聖体に頌讃と礼拝とがありまするよう[#「祭壇の聖体に頌讃と礼拝と
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