すなわち、キリストの声に対するがごとく[#「キリストの声に対するがごとく」に傍点]、その身振りその最初の合い図において[#「その身振りその最初の合い図において」に傍点]、直ちに幸福と堅忍とある盲従とをもって[#「直ちに幸福と堅忍とある盲従とをもって」に傍点]、職人の手のうちにある[#「職人の手のうちにある」に傍点]鑪《ろ》のごとく[#「のごとく」に傍点]、であり、またいかなるものも特別なる許しあるに非ざればこれを読みもしくは書くことを得ざるなり[#「いかなるものも特別なる許しあるに非ざればこれを読みもしくは書くことを得ざるなり」に傍点]、である。
 彼女らは各自順番に、彼女らのいわゆる贖罪[#「贖罪」に傍点]をなす。贖罪《しょくざい》というのは、あらゆる悪、あらゆる過失、あらゆる放肆《ほうし》、あらゆる違犯、あらゆる不正、あらゆる罪悪、すべて地上において犯さるるものに対する祈りである。午後の四時から午前の四時まで、あるいは午前の四時から午後の四時まで、引き続いて十二時間の間、贖罪[#「贖罪」に傍点]を行なう修道女は両手を合わせ、繩を首にかけ、聖体の前に石の上にひざまずいている。疲労にたえなくなる時には、腕を十字に組み顔を床《ゆか》につけて、腹ばいに平伏する。それが唯一の緩和である。そういう姿勢で、世のあらゆる罪人のために彼女は祈る。それは実に荘厳とも言えるほどに偉大である。
 かかることが、上に大|蝋燭《ろうそく》の一本ともっている柱の前で行なわれる時、全く区別なくあるいは贖罪[#「贖罪」に傍点]をなすとも言われあるいは柱に[#「柱に」に傍点]就《つ》く[#「く」に傍点]とも言われる。けれども第二の言い方は、苦行と卑下との意味を多く含んでいるので、修道女らが謙譲の心からして好んで口にするところのものである。
 贖罪をなす[#「贖罪をなす」に傍点]ことは、全心をこめた一つの勤めである。柱に就いた修道女は、背後に雷が落ちようともふり返りもしない。
 そのほかになお、聖体の前には常にひざまずいている修道女が一人いる。その時間は一時間としてある。彼女らは上番する兵士のように規律正しく交代する。そこに常住礼拝がある。
 院長や長老たちは、たいていきまって特に重々しい響きの名前を持っている。それは聖者や殉教者らに関連した名前ではないが、イエス・キリストの生涯《しょうがい》の各時
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