だ一度も持ったことがなかったのである。
室《へや》の中を行ったり来たりしていたテナルディエの上さんは、コゼットがぼんやりして仕事もしないで、二人の娘の遊ぶのを見入っているのを、ふと見て取った。
「ああこれ!」と彼女は叫んだ。「それで仕事をしてるのか。覚えておいで、鞭《むち》で打ってでも働かしてやるから。」
見なれぬ旅客は、椅子《いす》にすわったまま上さんの方へふり向いた。
「お上さん、」と彼はおずおずしたようなふうで、ほほえみながら言った、「まあ遊ばしておやりなさい。」
もしそういうことが、夕食の時に一片の焼き肉を食い二本のぶどう酒を傾け、ひどい貧乏人[#「ひどい貧乏人」に傍点]の様子をしていない旅客から言われたのであったら、一つの命令と同様な力になったかも知れない。けれども、そんな帽子をかぶった男が希望を申し出たり、そんなフロックを着た男が意志を表白したりすることは、テナルディエの上さんには許すべからざることのように思えたのだった。彼女は慳貪《けんどん》に言葉を返した。
「仕事をさせないわけにはいきません。物を食べますからね。何もさせないで食わしておくことはできませんよ。」
「いったい何をこしらえさしてるのですか。」と男はやさしい声で言った。その調子は、彼の乞食《こじき》のような服装と人夫のような肩幅とに妙な対照をなしていた。
上さんは答えてやった。
「靴下ですよ。私の娘どもの靴下です。もうたいてい無くなってしまって、間もなく跣足《はだし》にならなくてはならないところですからね。」
男はコゼットのまっかになってるかわいそうな足をながめた、そして言った。
「どれくらいかかったらあの娘はその靴下を仕上げますか。」
「まだ三四日はたっぷりかかるでしょうよ、なまけものだから。」
「そしてその一足の靴下ができ上がったらいくらくらいになるんです。」
上さんは軽蔑の目でじろりと男を見た。
「安くみても三十スーくらいですね。」
「ではそれを五フランで売ってくれませんか。」と男は言った。
「なんだ!」とそれをきいていた一人の馬方が太い笑いを立てながら叫んだ、「五フランだと。べらぼうな、鉄砲玉五つだと!」
亭主のテナルディエももう口を出すべき時だと思った。
「よろしゅうござんす。そういうことがしてみたいんなら、その靴下一足を、五フランで差し上げましょう。お客のおっしゃる
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