いこ》のおりに私をとらえに来ました――(私の第六交響曲をやってるときでした。)――幕間に彼女に会いましたが、彼女はやって来るとき、鼻をつき出して空気を嗅《か》ぎながら叫んでいました。「愛の香りがしている。ほんとに私はこの音楽が大好きです!……」
彼女は肉体的にも変わってしまいました。ただ瞳《ひとみ》の脹《は》れ上がった猫《ねこ》のような眼と、いつも動きを見せてる顰《しか》めた奇妙な鼻とだけが、昔のとおりです。けれどその顔は広くなり、頑丈《がんじょう》な骨立ちになり、色|艶《つや》がまして、丈夫そうになっています。戸外運動《スポーツ》のために彼女は一変してしまったのです。無性に戸外運動にふけっています。夫は御存じのとおり、自動車クラブと飛行クラブとの大立者の一人です。どんな遠距離飛行にも、空中や陸上や水上のどんな周遊にも、ストゥヴァン・ドレストラード夫妻が加わっていないものはありません。彼らはいつも旅にばかり出ています。人と会話を交える隙《ひま》なんかはありません。彼らの話題となるものはただ、競走や漕艇《そうてい》や蹴球《しゅうきゅう》や競馬ばかりです。それは社交界の一つの新しい連中です。ペレアスの時代は女にとっては過ぎ去ってしまいました。流行はもはや魂から離れています。若い女たちは戸外遊歩や日向《ひなた》の遊戯で焼けた赤い顔色をしています。男のような眼で人をながめます。多少荒っぽい笑い方をします。調子はいっそう粗野に生硬になっています。あなたの従姉《いとこ》は時とすると、無作法なことを平気で口にしています。昔はほとんど食うか食わずだったのに、非常な大食になっています。なお習慣を守って胃の弱いことを並べたてていますが、それでもやはりごく健啖《けんたん》です。書物なんかは少しも読んでいません。この社会ではもう読書なんかは廃《すた》っています。ただ音楽だけが贔屓《ひいき》にされています。音楽は文学の失寵《しっちょう》にかえって利を得た形です。疲れきっている彼らにとっては、音楽はトルコ風呂《ぶろ》であり、なま温かい湯気であり、マッサージであり、長|煙管《ぎせる》です。思索の必要なんかはありません。それは戸外運動と恋愛との間の過渡期です。そしてまた一種の遊戯です。しかし美的娯楽のうちでももっとも広く知られてるのは、現在では舞踏《ダンス》です。ロシア舞踏、ギリシャ舞踏、スイス舞踏、アメリカ舞踏、すべてのものがパリーで行なわれています。ベートーヴェンの交響曲《シンフォニー》、アイスキュロスの悲劇、いとものどけきクラヴサン[#「いとものどけきクラヴサン」に傍点]、ヴァチカン宮殿の古代像、オルフェウス[#「オルフェウス」に傍点]、トリスタン[#「トリスタン」に傍点]、キリスト受難、体操、その他すべてのものが踊られています。彼らは逆上しています。
あなたの従姉《いとこ》が、その審美心と戸外運動と実務の才(というのは、実務的能力と家庭的専横性とを彼女は母親から受け継いでいますから)のすべてを、いかにうまく調和さしてるかを見ると、実に不思議なほどです。そんなものを一つに混合することは考え得られもしません。しかし彼女はそれらを混合して平然としています。彼女は狂気に近い風変わりな性質でありながら明晰《めいせき》な精神を失わないと同様に、自動車でめまぐるしく飛び回っても常に確実な眼と手とを失いません。まったく一個の女丈夫です。夫や来客や家人などすべてのものを旗鼓堂々と統率しています。彼女はまた政治にも関係しています。彼女は「殿下」の味方です。と言って私が彼女を王党だと思ってるのではありません。それはただ彼女にとっては動き回る口実の一つにすぎません。そしてもう書物を十ページと読むこともないのに、アカデミーの選挙をしています。――彼女は私を保護してやろうという考えを起こしました。そんなことを私が好まないということはあなたもお思いなさるでしょう。そしてもっともたまらないことには、私はただあなたの言葉に従って彼女のところへ行きましたのに、彼女はもう私にたいして勢力をもってると思い込んだのです……。私はその腹癒《はらい》せに、ありのままのことを言ってやりました。彼女はただ一笑に付し去って、平然と私に答え返します。「彼女は本来はよい人……」とあなたは言われますが、まさしく、何か仕事さえしておればそうです。彼女は自分でそれを認めています。もう機械につき砕くべきものがなくなったら、新たな材料をそれに与えるためにどんなことでもするでしょう。――私は二回彼女の家へ行きました。そしてもうこれからは行かないつもりです。二回行っただけであなたにたいする私の従順さを示すに十分です。あなたは私の死滅をお望みにはならないでしょう。私は彼女の家から出て来るときには、気持がくじけ砕けがっ
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