だと考えた。彼は寝床から、戸棚《とだな》の大鏡の中で、彼女がつぎの室で何もかもひっくり返してるのを見てとった。彼はかっと怒って――(たしかに彼のうちにも昔の気性は失《う》せていなかった)――蒲団《ふとん》の中から飛び出し、彼女の手から紙包みを引ったくり、彼女を追い出してしまった。その憤怒のために、彼はかなりの熱の発作に襲われ、女中は立ち去ってしまった。彼女は癇癪《かんしゃく》を起こして、彼女のいわゆる「この気違い爺《じじい》」に一言の断わりもせずに、二度と姿を見せなかった。それで彼は病気になりながらも、だれも世話してくれる者がいなかった。彼は毎朝起き上がっては、戸口に置かれてる牛乳|瓶《びん》を取りにゆき、二人の恋人たちの約束の手紙を、門番が扉《とびら》の下に差し入れてやしないかを見にいった。手紙はなかなか来なかった。彼らは幸福のあまり彼のことを忘れていた。でも彼らを恨みはしなかった。自分が彼らの身になったら同じようにするだろうと考えた。彼は彼らの夢中な喜びのことを考え、それを彼らに与えてやったのは自分だと考えてみた。
 彼は多少快方に向かって床から起き始めた。そのときついにオーロラの手紙が来た。ジョルジュはそれに自分の名を書き添えるだけで満足していた。オーロラはクリストフの様子をあまり尋ねもせず、自分たちの消息をあまり伝えもしなかった。その代わりに、用件を一つ頼んできた。コレットの家に置き忘れてる首巻を送ってくれと言っていた。それは大したことではなかった――(オーロラは、クリストフに手紙を書いてるさい、どういうことを書き送ろうかと考えたときにふとそれを思い浮かべたにすぎなかった。)――けれどもクリストフは、何かの用をしてやるのがうれしくて、その品物を捜しに出かけていった。驟雨《しゅうう》模様の天気だった。ひどい冬の天候にちょっともどっていた。雪が解けて冷たい風が吹いていた。馬車が見当たらなかった。クリストフは発車場で待った。雇員らの不愛想さや故意にぐずついてる態度などに、彼はいらだってきたが、それで事がはかどるわけではなかった。そういう発作的な疳癪《かんしゃく》は半ば病態のせいで、穏やかな精神はそれに与《くみ》していなかった。がその疳癪のために、彼の身体はひどく揺り動かされた。あたかも倒れんとする樫《かし》の木が斧《おの》の下に最後のおののきをするようなものだった。彼は凍えきってもどってきた。通りがかりに門番の女が、雑誌の切り抜きを彼に渡した。彼はそれをちょっとのぞいてみた。意地悪い記事で、彼にたいする攻撃だった。今では彼はめったに攻撃を受けていなかった。打撃に気を止めない者を攻撃しても面白いものではない。もっともいきりたってる人々さえ、彼をきらいながらも、心に添わない一種の尊敬をいだかせられるようになっていた。
 ビスマルクは遺憾げに白状している。「恋愛ほど意のままにならぬものはないと思われているが[#「恋愛ほど意のままにならぬものはないと思われているが」に傍点]、尊敬はなおはるかに意のままにならぬものだ[#「尊敬はなおはるかに意のままにならぬものだ」に傍点]……。」
 しかしこの記事の筆者は、ビスマルクよりもいっそう頑強《がんきょう》で、尊敬や恋愛にとらわれない強い人物の一人だった。彼はクリストフのことを迫害的な言葉で述べて、半月後の次号で攻撃の続きを発表すると言っていた。クリストフは笑い出して、床につきながら言った。
「此奴《こいつ》は当てがはずれるだろう。そのとき俺がもう自分の住家にはいないことを知るだろう。」
 彼は看護婦を雇って看病してもらうようにと勧められた。けれどそれを頑固に拒んだ。自分はもうかなり一人きりで暮らしてきたし、こういうときには孤独のほうがかえってありがたい、と言っていた。
 彼は退屈しなかった。この数年間彼は、自分自身とたえず対語をしてきた。あたかも彼の魂は二つあるかのようだった。そして数か月以来、内部の人数はたいへん増していた。もう二つの魂ばかりではなくて、十余りの魂が彼のうちに住んでいた。それらはたがいに話をしていたし、またたいていは歌っていた。彼はその談話に加わったり、あるいは黙ってその歌を聴いていた。寝台の上やテーブルの上など手の届くところに、いつも五線紙を置いていて、自分や魂たちなどの応答を面白がって、その話を書きしるしていた。それは機械的な習慣だった。考えることと書くこととの二つの行為は、ほとんど同時に行なわれるようになっていた。彼にとっては、書くことは、明白に考えることだった。その魂の仲間から彼を引き離す事柄はみな、彼を疲らせいらだたせた。時によると彼がもっとも愛してる友人たちでさえそうだった。彼はその様子を彼らに示すまいとつとめた。しかしその拘束は彼をひどく困憊《こんぱい》さした
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