。そのあとで自分自己をまた見出すとたいへんうれしかった。というのは、彼は自分自身を見失ったからである。人間の饒舌《じょうぜつ》のなかでは、自分の内部の声を聞きとることはできなかった。崇高なる沈黙なるかなである……。
彼はただ門番の女かあるいはその子供のだれかが、日に二、三度用をしにくるのを許したばかりだった。手紙も彼らに出してもらった。彼は最後の日までエマニュエルと手紙の往復をつづけた。二人はほとんど同じくらいひどく病んでいた。そして自分の命に空《から》望みをかけてはいなかった。クリストフの宗教的な自由な天才と、エマニュエルの無宗教的な自由な天才とは、異なった道を通って、同じ親和的な晴朗の域に達していた。二人はしだいに読みにくくなる震えた手跡で、自分たちの病気のことをではなく、常に話題としていた事柄について、自分たちの観念の未来や自分たちの芸術などについて、話をし合った。
そして最後にある日、クリストフはもうきかなくなり始めてる手で、戦死しかけたスウェーデン王の言葉を書いた。
[#ここから3字下げ]
――予はこれにて足れり[#「予はこれにて足れり」に傍点]、兄弟よ[#「兄弟よ」に傍点]、汝みずからを救えよ[#「汝みずからを救えよ」に傍点]!
[#ここで字下げ終わり]
彼は自分の生涯《しょうがい》の全体を一連の階梯《かいてい》として見渡した……。自己を所有せんがための、青春の広大なる努力、単に生きるの権利を他人より獲得せんがため、己《おの》が民族の悪鬼よりおのれを獲得せんがための、熱烈なる闘争。勝利のあとにもなお、戦利品を勝利そのものから保護するために、間断なく監視するの義務。孤独なる心に人類の大家庭を奮って開いてくれる友情の、愉悦やまたは艱難《かんなん》。芸術の豊満。生の絶頂。征服したる己が精神の上に傲然《ごうぜん》と君臨する。おのれの運命の支配者たるを感ずる。そして突然、黙示録の騎士らに、喪[#「喪」に傍点]や受難[#「受難」に傍点]や恥[#「恥」に傍点]や、主《しゅ》の前衛などに、道の曲がり角にて出会う。馬蹄《ばてい》に蹴《け》倒され踏みにじられながらも、雲霧の中に浄化の荒い火が燃えている山嶺《さんれい》まで、血まみれになってたどりゆく。神と相面して立つ。ヤコブが天使と戦うように、神と戦う。打ち拉《ひし》がれて戦いより出る。おのれの敗北を賛美し、おのれの範囲を了解し、主《しゅ》より指定された領分において、主の意志を果たさんと努力する。かくして、耕作と播種《はしゅ》と収穫とを終え、辛《つら》いまた美しい労働を終えたとき、日に照らされた連山の麓《ふもと》に憩《いこ》うの権利を得て、その山々に向かって言う。
「汝らに祝福あれかし! 予は汝らの光明を味わい得ないであろう。しかし汝らの影は予には快い……。」
そのとき、愛《いと》しき彼女が彼に現われたのだった。彼女は彼の手を取ってくれた。そして死は彼女の身体の垣《かき》を破りながら、彼女の魂を、友の魂のうちに流し込んだ。彼らはいっしょに月日の影の外に出でて、多幸なる山嶺へ到達した。そこには、三人の美の女神のごとく、気高きロンドをなして、過去と現在と未来とが手をつなぎ合っていた。そこでは、和らいだ心は、悲しみと喜びとが生まれ花咲き消え失せるのを、一度にながめやった。そこでは、すべてが調和[#「調和」に傍点]であった……。
彼はあまり気が急いでいた。すでに終局に達したものと思っていた。しかも彼のあえぐ胸をしめつける万力《まんりき》は、彼の焼けるような頭にぶつかる種々の面影の騒々しい錯乱は、もっとも困難な最後の行程がなお残っていることを、彼に思い出さした……。前進せんかな!……
彼は自分の病床にじっと釘《くぎ》付けになっていた。上の階では一人の馬鹿な女が、幾時間もピアノをかき鳴らしていた。彼女はただ一つの楽曲きり知らなかった。同じ楽句を飽くことなく繰り返していた。彼女にはそれがたいへん楽しみだった。それらの楽句は彼女に、あらゆる色彩の喜びと情緒とを与えた。クリストフにも彼女の幸福はわかった。しかし彼は泣きたいほどそれに悩まされた。少なくともそんなに強くピアノをたたいてさえくれなかったら! 騒音は彼にとっては悪徳にも劣らず嫌《いや》なものだった……。が彼もついにはあきらめた。耳に入れまいとするのは辛《つら》いことだった。けれども思ったほどむずかしいことではなかった。彼は肉体から遠ざかりかけていた。病みほうけた粗末なその肉体……。その中にかくも多年の間こもってきたことは、なんと不名誉なことだろう! 彼は肉体が磨滅《まめつ》してゆくのをながめて、こう考えた。
「もう長くはもつまい。」
彼は自分の人間的利己心の脈をみるためにみずから尋ねた。
「お前はどちらを望むか、クリストフの記
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