ともに、落ちてくる夜の間に包まれてしまうだろう……。それもよし、それもよし! おう闇夜《やみよ》よ、太陽を孵化《ふか》し出すものよ、われは汝を恐れない! 一つの星が消え失《う》せても、他の無数の星が輝き出す。沸騰してる牛乳の鉢《はち》のように、空間の深淵《しんえん》は光に満ちあふれている。汝はわれを消してしまうことができないだろう。死の息吹《いぶ》きはわが生をふたたび燃えたたせるであろう……。
ドイツから帰りに、クリストフは昔アンナと知り合いになった町に寄ってみた。彼は彼女と別れて以来、彼女について少しも知るところがなかった。彼女の消息を尋ねることもなしかねた。長い間、その名前だけでも彼をぞっとさした……。――今では、彼は落ち着いていたし、もう何にも恐れなかった。しかしその夕方、ライン河に臨んだ旅館の室で、翌日の祭典を告げる聞き馴《な》れた鐘の音を聞くと、過去の面影がよみがえってきた。河から彼のほうへ遠い危険の香が立ちのぼってきた。彼にはそれがよくわからなかった。夜通しその追憶にふけった。彼は恐るべき主宰者[#「主宰者」に傍点]から解放されてるのを感じていた。そしてそれは彼にとって悲しい悦《よろこ》びだった。彼は翌日どうしようかと定めてはいなかった。ブラウン家を訪問してみようかという考えが――(それほど過去は遠ざかっていた)――ちょっと起こった。しかし翌日になるとその勇気がなかった。医師とその細君とがまだ生きてるかどうかを、旅館で尋ねてみることさえしかねた。彼は出発してしまおうと決心した……。
出発の間ぎわになって、彼は不可抗な力に駆られて、昔アンナがよく行ってた寺院へはいった。そして昔彼女が跪《ひざまず》きに来ていた腰掛の見える所に、柱の後ろに座を占めた。彼女がもし生きてたらなおそこへやって来るに違いないと思って待ち受けた。
果たして一人の女がやって来た。彼はそれに見覚えがなかった。彼女は他の女たちと同じようだった。身体は肥満し、頬はふくらみ、頤《あご》は脂肥《あぶらぶと》りがし、無関心な冷酷な表情をしていた。黒服をつけていた。自分の腰掛にすわって身動きもしなかった。祈祷《きとう》してるようにも祈祷を聞いてるようにも見えなかった。前方をじっとながめていた。その女のうちには、クリストフが期待してるようなものは何もなかった。ただ一、二度、膝《ひざ》の上の長衣の皺《しわ》を伸ばすようなやや習癖めいた身振りをした。昔彼女[#「彼女」に傍点]はよくそういう身振りをしていた……。出て行くときに、彼女は頭をまっすぐにし、書物をもってる手を腹の上に組み合わせて、ゆっくり彼のそばを通った。彼女の薄暗い退屈げな眼の光は、ちょっとクリストフの眼の上にすえられた。しかしたがいに相手を見てとることができなかった。彼女はまっすぐな硬《こわ》ばった姿勢で、振り向きもせずに通り過ぎた。そして一瞬間後に、彼はちらとひらめいた記憶の中で、昔自分が接吻《せっぷん》したことのあるその口を、凍りついた微笑の下に、唇《くちびる》のある皺によって、突然見てとった……。彼は息がつけず膝が立たなかった。彼は考えた。
「主《しゅ》よ、私の愛した女が住んでいたのは、あの身体の中にであるのか。彼女はどこにいるのか。彼女はどこにいるのか。そして私自身も、私はどこにいるのか。彼女を愛した男はどこにいるのか。われわれから、またわれわれを食い荒らしたあの残忍な愛から、何が残っているか。――灰ばかりだ。火はどこにあるのか。」
彼の神は答えた。
「予のうちにある。」
そこで彼はまた眼をあけて、最後にも一度、戸口から日向《ひなた》へ出て行く彼女の姿を――人込みの中に――見てとった。
彼はパリーにもどってから間もなく、旧敵レヴィー・クールと和解することになった。彼は邪悪な才能と悪意とを併用して、長い間クリストフを攻撃してきた。それから、成功の絶頂に達し、名誉に飽き、満腹し落ち着いたので、クリストフの優秀さを内々認めてやる気になった。そして握手を求めてきた。クリストフは攻撃にも好意にも、何一つ気づかぬふうをした。レヴィー・クールは根気がつきた。二人は同じ町に住んでいて、しばしば出会うことがあった。でもたがいに知ってる様子をしなかった。クリストフは通りすがりに、ちらと彼の上へ視線を投げながら、彼を眼にも止めないようなふうをした。相手を否定するその泰然たるやり方に、レヴィー・クールはいつも激昂《げっこう》した。
レヴィー・クールは二十歳未満の娘を一人もっていた。きれいで、すっきりして、優雅で、小羊のような横顔、房々《ふさふさ》と縮れた金髪、婀娜《あだ》っぽいやさしい眼、ルイニ流の微笑をもっていた。二人はよくいっしょに散歩した。クリストフは彼らとリュクサンブールの園でしばしば行き会った。
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