れぬ欲求を感じている。なぜかと言えば、一世紀以来どの民衆もみな、相互の侵入によって、あるいはまた、新しい道徳や科学や信仰をうち建てる、世界のあらゆる知力のおびただしい持ち寄り財産によって、すっかり変形させられたからだ。それで各民衆は、他の民衆といっしょに新世紀へはいる前に、自分の本心の検査をしておかなければいけないし、自分はどういうものであり自分の財産はどれだけであるかを、正確に知っておかなければいけない。一つの新たな時代がやって来る。すると人類は、人生と新たな貸借契約を結ぶだろう。新たな法則に基づいて、社会は生き返るだろう。明日は日曜だ。各自に一週間の計算をし、自分の住居を洗い清め、自分の家を清潔にしようとつとめて、それから、共通の神の前で他人といっしょになり、新たな同盟条約を神と締結するのだ。」
エマニュエルはクリストフをながめていた。その眼には過ぎ去ってゆく幻像が映じていた。クリストフが話し終えても、彼はしばらく黙っていた。それから言った。
「あなたは幸福だなあ! 闇夜《やみよ》を見てはいない。」
「僕は闇夜の中でも眼が見えるのだ。」とクリストフは言った。「闇夜の中でかなり暮らしてきた。僕は年とった梟《ふくろう》なんだ。」
そのころ、クリストフの友人らは彼の様子にある変化が起こったことを認めた。彼はしばしば放心した者のようにぼんやりしていた。人の言葉をよく聞いてはいなかった。何かに気をとられたようなふうをして微笑《ほほえ》んでいた。そのぼんやりしてることを人に注意されると、やさしく謝《あやま》るのだった。また時とすると自分のことを三人称で話した。
「クラフトがそれをしてあげよう……。」
あるいは……
「クリストフが笑うだろう……。」
彼をよく知らない人たちは言った。
「なんという自己心酔だろう!」
でもそれはまったく反対だった。彼は自分をあたかも他人のように外部から見てるのだった。彼はちょうど、美《うる》わしいもののためになす戦いにまでも興ざめてしまう時期に達していた。人は自分の仕事を果たしてしまうと、こんどは他人がその仕事を完成してくれるだろうと思いたがるものであり、結局はロダンが言ったように、「常に美が最後の勝利を得るのであろう[#「常に美が最後の勝利を得るのであろう」に傍点]」と思いたがるものである。悪意も不正も、もうクリストフをいらだたせなかった。――彼は笑いながら、これは自然なことではないと言ったり、人生は自分のもとから去りつつあると言ったりした。
実際、彼はもはや以前のような元気をもたなかった。ちょっとした肉体上の努力にも、長く歩いたり早く馳《はし》ったりしても、疲れてしまった。すぐに息切れがした。胸が痛んだ。ときどき老友シュルツのことを考えた。彼は自分の気分を他人に話さなかった。話しても無駄《むだ》ではないか。ただ他人を心配させるばかりで、回復するというわけではない。そのうえ彼は、そういう不快な気分を真面目《まじめ》に気にかけてはいなかった。病気になることよりも、用心するように強《し》いらるることを、はるかに恐れていた。
あるひそかな予感によって、彼はも一度故郷を見たいという願いにとらえられた。それは一年一年と延ばしてきた計画だった。来年こそは……と考えてきた。そしてこんどはもう延ばさなかった。
彼はだれにも知らせずひそかに出発した。それは短い旅だった。クリストフは自分の求むるものをもう何一つ見出さなかった。この前ちょっと来たときに萌《きざ》していた変化は、もう今ではすっかり完了していた。小さな町は大きな工業市となっていた。古い人家はなくなっていた。墓地もなくなっていた。ザビーネの畑地だったところには、製作所の高い煙筒が幾つも立っていた。クリストフが子供のころ遊んだ牧場は、河に蚕食されていた。不潔な大建築の間の街路に(なんたる街路ぞ!)彼の名がつけられていた。過去のものはすべて滅びていた、死までが。……それもよし! 生は継続していた。彼の名で飾られてるその街路の屋根裏で、おそらく他の小さなクリストフたちが、夢想し苦しみ奮闘していることだろう。――巨大な音楽堂で催されてる音楽会で、彼の作品の一つが、彼の思想とはまるで裏腹に演奏されてるのが聞こえた。彼はそれを自分の作だとは認めがたい気がした……。それもよし! あの作は誤解されながらもおそらく新しい精力を刺激するだろう。われわれは種を蒔《ま》いたのだ。それを諸君はどうにでもするがよい。われわれを自身の養いとするがよい。――クリストフは日暮れのころ、広い霧がたなびき始めてる郊外の野を散歩しながら、自分の生涯《しょうがい》を包み込まんとしてる大きな霧のことを考え、地上から消えて自分の心の中に逃げ込んでる愛する人々のことを考えた。そしてその人々も彼と
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