いっしょになってた女は、彼があるとき激昂《げっこう》のあまり、その愛情の重荷にいかほど倦《う》み疲れてるかを、あまりはっきりと感じさせたので、突然姿を隠してしまった。彼は不安に慴《おび》えながら夜通し彼女を捜した。そしてようやく、ある警官派出所に保護されてるところを見つけ出した。彼女はセーヌ河に身を投げようとしたのだった。そして橋の欄干をまたぎ越そうとするさいに、通行人から着物の端をとらえられた。彼女は住所も名前も明かすことを拒んで、またも身を投げようとしたのだった。そういう苦悶《くもん》を見るとエマニュエルは気がくじけた。他人から苦しめられたあとにこんどは自分が他人を苦しめてるということは、考えても堪えがたいことだった。彼は絶望しきってる彼女を家に連れもどし、自分が与えた傷口を包帯してやろうとつとめ、その気むずかしい女にほしがってる愛情を保証してやろうとつとめた。そして自分の反抗心を押し黙らせ彼女のうるさい愛情に忍従し、自分の残余の生をそれにささげつくした。彼の天才の活気はことごとく心の中に潜み込んだ。行動の使徒とも言うべき彼は、よい行ないはただ一つしかないと信ずるようになった。すなわち、人を害しないということだった。彼の役割は済んでしまった。人類の大潮を湧《わ》きたたせる力[#「力」に傍点]は、単に行動を解放するための一つの道具として彼を使ったばかりらしかった。一度秩序ができ上がると、彼はもう何物でもなくなった。行動は彼がいなくても引きつづいた。彼は行動が引きつづいてるのをながめながら、自分一身に関する不公正にはおおよそ忍従したが、自分の信念に関する不公正にはどうしても忍従できなかった。なぜなれば、彼は自由思想家であり、あらゆる宗教家から解放されてると自称し、クリストフを変装した僧侶《そうりょ》だと戯れに見なしていたけれど、それでもやはり、自分の奉仕してる夢想を神とする力強い精神の例にもれず、自分自身の祭壇をもっていたのである。そして今やその祭壇は空《から》になっていた。エマニュエルはそれを苦しんだ。人があれほど苦心して勝利を得させようとしてきた神聖な観念、すぐれた人々がそのために一世紀間あれほど迫害されてきた神聖な観念、それが今新来の人々から足下に蹂躙《じゅうりん》されてるのを見ては、どうして悲しまずにおられよう! フランス理想主義のみごとなる遺産――聖者や殉教者や英雄などを出した自由[#「自由」に傍点]にたいする信念、人類にたいする愛、諸国民や諸民族の親和にたいする敬虔《けいけん》な翹望《ぎょうぼう》――それをこれらの青年らは何たる盲目な暴戻《ぼうれい》さをもって冒涜《ぼうとく》してることだろう! われわれが征服したあの怪物を愛惜し、われわれが折りくじいたあの軛《くびき》の下にまたみずからつながれ、暴力の世を大声に呼びもどし、憎悪をふたたび燃えたたせ、わがフランスの心中に戦争の狂気をふたたび起こさせるとは、なんたる狂乱した仕業だろう!
「それはフランスばかりではない、世界全体がそうなんだ。」とクリストフは笑うような様子で言った。「スペインからシナに至るまで、同じ突風が吹き渡っている。その風を避けられる片隅《かたすみ》もありはしない。ねえ、おかしなことになってきたじゃないか、あのスイスまでが国家主義になっている。」
「それで気が安まるのですか?」
「安まるとも。これによって見ると、そういう風潮は数人の滑稽《こっけい》な熱情から来たものではなくて、世界を統ぶる隠れた神から来たものらしい。そしてその神にたいしては、僕は頭を下げることを覚えたのだ。もし僕がその神を理解しないとしても、それは僕が悪いので、神が悪いのではない。神を理解しようとつとめたまえ。しかし君たちのうちだれか理解しようと心がけてる者があるか。君たちはただその日その日を送り、すぐつぎの限界より先には眼をつけず、その限界を道の終極だと想像している。自分たちを運び去る波だけを見ていて、海を見ていない。今日の波を湧《わ》きたたしたのは、われわれの昨日の波だ。また今日の波は、明日の波の畝《うね》を掘るだろう。そして明日の波は、われわれの波が忘れられたと同じように、今日の波を忘れさしてしまうだろう。僕は現時の国家主義に賛成もしなければ恐れもしない。それは時とともに流れてゆく。もう過ぎ去りかけてる、過ぎ去ってしまってる。それは階段の一つの段である。階段の頂まで登りたまえ。今の国家主義などは、やがて来たらんとする軍隊の先駆者だ。その軍隊の笛や太鼓の鳴るのがもう聞こえてるじゃないか……。」
(クリストフは太鼓の音をまねて机をたたいた。そこにいた猫が眼を覚まして飛び上がった。)
「……現在では、各民衆はそれぞれ、自分のあらゆる力を寄せ集めてその貸借表を作り上げようとの、やむにやま
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