友情はパリーの社交界で語り伝えられていた。エマニュエルはクリストフにたいする熱情にとらわれていた。彼は高慢心からそれをクリストフに示したがらなかった。粗暴な態度の下にそれを隠していた。時とするとクリストフを冷遇することさえあった。しかしクリストフはそれに瞞《だま》されはしなかった。その心が今ではいかに自分にささげつくされてるかを知っていたし、またその価値をもよく知っていた。彼らは一週に二、三度はかならず会った。身体が悪くて外出できないときには手紙を書いた。遠隔な地から書き合うような手紙だった。彼らは外面的事件によりもむしろ、学問や芸術における精神の進歩に多く興味をもった。彼らは自分の思想のうちに生きながら、自分の芸術について瞑想《めいそう》したり、あるいは渾沌《こんとん》たる事相の下に、人間の精神の歴史中に跡を印すべき、人の気づかぬ小さな光を見分けたりした。
 クリストフのほうがいっそう多くエマニュエルの家にやって来た。先ごろの病気以来クリストフは、エマニュエルよりも丈夫とは言えなくなっていたけれど、二人はいつとはなしに、エマニュエルの健康のほうにいっそう気を配るのが至当だと思うようになっていた。クリストフはもうエマニュエルの七階に上るのに骨が折れた。ようやく上りきると、息をつくためにしばらくの時間を要した。また二人はいずれ劣らぬ不養生家であることを、たがいに知っていた。気管支が悪かったりときどき息苦しさに襲われたりするにもかかわらず、ひどい喫煙家だった。クリストフが自分の家でよりもエマニュエルの家で会うのを好んだについては、そのことも理由の一つだった。というのはオーロラが彼の喫煙癖をひどくたしなめるからだった。そして彼は彼女を憚《はばか》っていた。彼とエマニュエルとは、話の最中にひどく咳《せ》き込むことがあった。すると彼らは余儀なく話をやめて、悪戯《いたずら》をした児童のように笑いながら顔を見合わした。時とすると一方が、咳き込んでる相手に意見をすることもあった。しかし相手は息がつけるようになると、少しも煙草《たばこ》のせいではないことを頑《がん》として言い逆らった。
 エマニュエルの机の上には、紙片の散らかってる間の空いてる場所に、灰色の猫《ねこ》が一匹寝そべっていた。そして二人の喫煙家を、小言でもいうように真面目《まじめ》くさってながめていた。この猫は二人の生きた良心だとクリストフは言っていた。その生きた良心を窒息させるためによく帽子をかぶせた。それはごくありふれた種類の虚弱な猫で、往来で打ち殺されかかったのをエマニュエルが拾ってきたのだった。いじめられて弱った身体がいつまでも回復せず、ろくに物も食べず、ふざけることもあまりなく、物音一つたてなかった。ごくおとなしくて、怜悧《れいり》な眼で主人の様子を窺《うかが》い、主人がそこにいないと寂しがり、主人のそばに机の上に寝るので満足し、いつもぼんやり考え込んでいて、時には幾時間もうっとりと、手の届かない小鳥が飛び回ってる籠《かご》を見守り、ちょっと注意のしるしを見せられても丁重に喉《のど》を鳴らし、エマニュエルの気紛れな愛撫《あいぶ》やクリストフのやや乱暴な愛撫に、気長く身を任せて、引っかいたり噛《か》みついたりしないようにいつも用心していた。ごく弱々しくて、片方の眼から涙を流し、小さな咳をしていた。もし口をきくことができるとしたら、二人の友人たちのように、「少しも煙草《たばこ》のせいではない、」と厚顔にも言い張ることはしなかったろう。しかし二人のすることはなんでも受け入れていた。ちょうどこう考えてるかのようだった。
「彼らは人間だ、自分のしてることがわからないのだ。」
 エマニュエルはこの猫をたいへんかわいがっていた。その病身な動物と自分との間に運命の類似があるように思っていた。似てると言えば眼の表情までも似てるとクリストフは言った。
「当然ですよ。」とエマニュエルは言った。
 動物はその環境を反映する。その顔貌《がんぼう》は接近してる主人たちのとおりに仕上げられる。愚昧《ぐまい》な者の飼ってる猫は、怜悧な者の飼ってる猫と同じ眼つきではない。家の中に飼われる動物は、ただに主人の仕込みによってばかりではなく、主人の人柄によって、善良にもなれば邪悪にもなり、磊落《らいらく》にもなれば陰険にもなり、機敏にもなれば遅鈍にもなる。また人間の影響ばかりではない。周囲のありさまも動物を同じ姿に変化させる。知的な景色は動物の眼を輝かせる。――エマニュエルの灰色の猫は、パリーの空に輝《て》らされてる息苦しい屋根裏と不具の主人とに、よく調和していた。
 エマニュエルも人間らしくなっていた。初めてクリストフと知り合ったころとはもう同じではなかった。家庭的悲劇のために深く揺り動かされたのだった。彼と
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