のきらめく空間に満ちていて、諸天体の音楽がその揺るがない深い大きな波をそこに広げていた……。
彼が眼を覚ましたときにも(夜が明けていたが)、その異様な幸福は、聞こえた言葉の深い輝きとともになお残っていた。彼は寝床から出た。黙然たる神聖なる感激が彼を支持してくれた。
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…………………汝よく考えみよ、
ベアトリーチェと汝との間にはこの炎の壁あるを[#「ベアトリーチェと汝との間にはこの炎の壁あるを」に傍点]。
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しかるに今やベアトリーチェと彼との間の障壁は越えられた。
すでに長い以前から、彼の魂の大半は壁の彼方《かなた》に行っていた。人は生きるに従って、創造するに従って、愛しそして愛する人々を失うに従って、ますます死から脱するものである。落ちかかってくる新たな打撃ごとに、鍛え出す新たな作品ごとに、自己から脱出して、自分の創《つく》った作品の中に、今は世に亡い愛する魂の中に、逃げ込んでゆくものである。ついには、ローマはもはやローマの中にはないようになる。自己のよき部分は自己以外のところにあるようになる。クリストフはただ一人のグラチアによって、まだ壁の此方《こちら》に引き止められていた。そしてこんどはグラチアも……。今や扉は苦悩の世界にたいして閉ざされてしまった。
彼は内的|昂揚《こうよう》の時期を過ごした。彼はもうなんらの鎖の重荷をも感じなかった。もう何事をも期待しなかった。もう何物にも従属しなかった。自由の身であった。戦いは終わってしまった。勇壮なる争闘の神――万軍の主たる神[#「万軍の主たる神」に傍点]――が君臨している圏内から外に出で、戦争地域から外に出でて、彼は自分の足下に、燃ゆる荊[#「燃ゆる荊」に傍点]の炬火《きょか》が暗夜のうちに消えてゆくのをながめた。ああすでにその炬火もいかに遠くなってることぞ! 彼はその光に道を輝《て》らされてたときには、もうほとんど絶頂に達したものだと思っていた。それから後いかほど歩いてきたことだろう! それでも頂は少しも近くなったようには見えなかった。永久に歩きつづけても頂には達せられないかもしれない(彼は今やそのことを知っていた。)けれども、光明の圏内にはいり込むときには、愛する人々をあとに残してゆかないときには、その人々といっしょに道を進む以上は永久もさほど長いものではない。
彼は扉《とびら》を閉め切ってしまった。だれもそれをたたいて訪れる者はなかった。ジョルジュは同情の力を一度にすっかり費やしてしまった。家に帰ると安心して、翌日はもうそのことを考えなかった。コレットはローマへ出発した。エマニュエルは何にも知らなかった。そしていつものとおり疑心深くて、クリストフから訪問の返しを受けないので、不満に思って沈黙を守った。そしてクリストフは、あたかも妊娠の女が大事な荷を負うように、今や自分の魂の中に負うている彼女を相手に、だれにも邪魔されることなく、幾日も無言の対話にふけった。いかなる言葉にも移せない痛切な対話だった。音楽をもってしても表現しがたいものだった。心がいっぱいになってあふれるほどになると、クリストフはじっと眼をふさいで、その心の歌に耳を傾けた。あるいは幾時間もピアノの前にすわって、自分の指先が語るに任した。この期間だけの間に彼は、他の時期全体におけるよりもいっそう多くの即興曲をこしらえた。しかし彼は自分の考えを書き止めなかった。書き止めたとて何になろう?
数週間たった後に、彼はまた外に出かけて、他人と会い始めた。しかしジョルジュを除いては、彼の親しい人々のうちでも一人として、どういうことが起こったかを気づいた者はなかった。そしてそのときまで、即興の鬼はなおしばらく残っていた。それはもっとも意外なときにクリストフを訪れた。ある晩クリストフはコレットの家で、ピアノについて一時間近くも演奏した。客間に他人がいっぱいいることも忘れて、まったく夢中になっていた。人々は笑う気になれなかった。その恐ろしい即興曲に圧せられ揺るがせられた。意味を理解しない人々までが胸迫る思いをした。コレットの眼には涙が湧《わ》いてきた……。クリストフはひき終えると、不意に振り向いた。人々の感動を見て、肩をそびやかした――そして笑った。
苦悶《くもん》もまた一つの力となる――統御される一つの力となる――という点まで彼は達していた。彼はもはや苦悶に所有されずに、かえって苦悶を所有していた。それはあばれ回って籠《かご》の格子《こうし》を揺することはあっても、彼はそれを籠から外に出さなかった。
そのころから、彼のもっとも痛烈なまたもっとも幸福な作品が生まれ出し始めた。たとえば福音書の一場面。ジョルジュはそれを見てとった。
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