》よなにゆえに哭《な》くや。」――「わが主を取りし者ありていずこに置きしかを知らざればなり。」彼女かく言いて振り返りみ、イエスの立てるを見たり。されどもイエスなることを知らざりけり。
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または、一連の悲劇的な歌曲《リード》。それはスペインの俗謡の文句に作曲したもので、その中には黒い炎とも言うべき恋と喪との陰気な歌があった。
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わたしゃなりたい
お前が埋まるその墓に、
末の末まで
お前を両手に抱かんため。
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または、静穏の島およびスキピオの夢[#「スキピオの夢」に傍点]と題された二つの交響曲《シンフォニー》。この交響曲の中では、ジャン・クリストフ・クラフトの他のいかなる作品におけるよりもいっそうよく、当時の音楽上のあらゆる美しい力の結合が実現されていた。薄暗い襞《ひだ》のある懇篤な学者的なドイツの思想、熱情的なイタリーの旋律《メロディー》、細やかな節奏《リズム》と柔らかい和声《ハーモニー》とに富んでるフランスの敏才、などが結合されていた。
「大なる喪の悲しみのおりに絶望から生ずるその感激」は、一、二か月つづいた。それから後クリストフは、強健な心と確実な足取りとでふたたび人生に立ち帰った。悲観思想の残りの霧と堅忍な魂の灰色と、神秘な明暗の幻覚とは、死の風に吹き払われてしまった。消えてゆく雲の上に虹《にじ》が輝き出していた。涙に洗われたようないっそう滑らかな空の眼差《まなざし》が、雲を通して微笑《ほほえ》んでいた。それは山上の静かな夕ベであった。
[#改ページ]
四
ヨーロッパの森の中に潜んでいる大火が燃えだしていた。一方を消しても他方で火の手があがっていた。渦《うず》巻く煙と雨のような火の粉とともに、方々へ飛火してかわいた藪《やぶ》を焼いていた。すでに東方においては、前駆者たる小戦闘が諸国民間の大戦役の序曲を奏していた。ヨーロッパ全体が、昨日までは懐疑的で無感覚で枯れ木のようだったヨーロッパが、火の餌食《えじき》となっていた。戦いの欲望がすべての人の魂をとらえていた。たえず戦争は爆発しかけていた。いくら鎮圧されてもまた頭をもたげてきた。ごくつまらない口実もそれに油を注いだ。戦乱の糸口は偶然事にかかってるのが感ぜられた。人は待ち受けていた。もっとも平和的な人々も必然という感情に圧せられていた。そして観念論者らは片眼の巨人プルードンの大きな影の下に隠れて、人間の高貴さのもっともみごとな資格を戦争のうちに賛美していた……。
西欧諸民族の肉体的および精神的復活は、実にかかるところへ到達すべきものであったのか! 熱烈な行動と信念との奔流は諸民族を駆って、かかる殺戮《さつりく》へ突進させるべきものであったのか! その盲目的な疾駆に、選択され見通された一つの目的を定めることができるのは、ただナポレオンのごとき天才のみであったろう。しかしこの行動の天才はヨーロッパのどこにもいなかった。あたかも世界はおのれを統べるためにもっとも凡庸な者どもを選んだかの観があった。人類の精神の力は他の方面にあった。――かくなってはもはや、人を巻き込む急坂に従うよりほかはなかった。統治者も被統治者もみなそうしていた。ヨーロッパは武装警戒をしてるかの観を呈していた。
クリストフは、オリヴィエの心配げな顔をそばに見ながら同じように警戒したときのことを、思い起こしたのだった。しかしその当時戦争の脅威は、通りかかる夕立雲くらいなものにすぎなかった。しかるに今やその雲は、ヨーロッパ全体に影を落としていた。そしてクリストフの心もまた変わっていた。そういう国民相互の憎悪《ぞうお》に彼はもう加わることができなかった。一八一三年におけるゲーテの精神状態と同じだった。憎悪なくして如何《いか》で戦うことができよう? そして、青春の気なくして如何《いか》で憎悪することができよう? 憎悪の地帯はもう通り越してしまっていた。相敵対してる大民衆のうちの、いずれが彼にとってはもっとも親愛でなかったろうか? 民衆それぞれの価値と世界がそれらに負うてるところのものとを、彼は認めることを知っていた。人の魂のある段階に達するときには、「もはやそれぞれの国民を認めずして[#「もはやそれぞれの国民を認めずして」に傍点]、近隣の民衆の幸不幸を[#「近隣の民衆の幸不幸を」に傍点]、あたかもおのれが民衆のそれと同様に感ずる[#「あたかもおのれが民衆のそれと同様に感ずる」に傍点]。」雷雨の雲は足下にある。周囲はもはや空のみである――「鷲《わし》のものたる大空[#「のものたる大空」に傍点]」のみである。
それでも時とすると、クリストフはあたりの人々の敵意に困らされることがあった。彼はパリーにおいて自分が敵の民族であるこ
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