非常に彼らの気に入っていた。というのは、彼ら自身の運命の象徴とも多少なるべきもので、約束の土地[#「約束の土地」に傍点]というのだった。クリストフはその曲のことをしばしばグラチアへ話していた。初演はつぎの週に行なわれることになっていた……。彼に心配をかけてはならなかった。彼女は単なる風邪《かぜ》らしいと手紙に書いた。つぎにそれでもなお言いすぎてる気がした。彼女は手紙を引き裂いた。そしても一つ書き直すだけの力がなかった。晩に書こうと考えた。晩にはもう間に合わなかった。彼を呼ぶ間もなかった。手紙を書く間さえなかった……。物事はいかに早く死滅することぞ! 数世紀かかってこしらえられたものも数時間で破壊される……。グラチアはようやくのことに、自分の指にはめてた指輪を娘にやって、それを自分の友に渡してくれと頼んだ。これまで彼女はオーロラとあまり親しんでいなかった。今やこの世を去るときになって、あとに残す娘の顔を心こめて見守った。自分の握手を友に伝えてやるべき娘の手へ取りすがった。そしてうれしく考えた。
「私はすっかりこの世を去りはしない。」
[#ここから3字下げ]
「何ものぞ、予が耳に響き渡るかくも大いなる
かくもやさしきこの音は!………」(スキピオの夢)
[#ここで字下げ終わり]
ジョルジュはコレットのもとを去ると、同情の念に駆られてクリストフのところへ舞いもどった。彼は前々からコレットの不謹慎な言葉によって、グラチアがクリストフの心中のいかなる地位を占めてるかを知っていたし、時とすると――(青年は敬意を欠きがちなものである)――それを面白がることもあった。しかし今彼は、かかる死亡がクリストフに起こさせるべき悲しみをひどく痛切に感じたのだった。そして彼のところへ駆けつけて行き、彼を抱擁し彼に同情したかった。彼の情熱の激しさを知ってただけになおさら――先刻彼が示した静平さに不安の念をいだかせられた。ジョルジュは呼鈴を鳴らした。何にも物の動く気配がなかった。彼はまた呼鈴を鳴らして、クリストフとの間に約束してる特別の仕方で扉《とびら》をたたいた。肱掛椅子《ひじかけいす》の動く音がして、ゆるやかな重々しい足音の近づくのが聞こえた。クリストフは扉を開いた。その顔はあまりに落ち着いていたので、彼の腕の中へ飛び込むつもりだったジョルジュは立ち止まった。どう言ってよいかわからなかった。クリストフは穏やかに尋ねた。
「君だったのか。何か忘れ物でもしたのかい。」
ジョルジュはまごついてつぶやいた。
「ええ。」
「はいりたまえ。」
クリストフはジョルジュが来る前からすわっていた肱掛椅子《ひじかけいす》のところへ行ってまたすわった。窓ぎわで椅子の背に頭をもたせて、正面の屋根並みや夕映えの空をながめた。ジョルジュには構わなかった。ジョルジュはテーブルの上に物を捜すようなふうをしながら、ひそかにクリストフのほうを見やった。クリストフの顔は静まり返っていた。夕陽《ゆうひ》の反映が頬《ほお》の上部と額の一部とを照らしていた。ジョルジュは物を捜しつづけるようなふうで、隣の室――寝室――へはいっていった。先刻クリストフが手紙をもって閉じこもった室だった。手紙はまだそこに、身体の形が残ってる敷き放しの寝床の上にあった。床《ゆか》の敷物の上には一冊の書物が落ちていた。開かれたままでそのページが一枚|皺《しわ》くちゃになっていた。それを拾い上げてみると、福音書[#「福音書」に傍点]であって、マグダラのマリアと園を守る人との邂逅《かいこう》のところだった。
彼はまた元の室にもどってき、様子を作るため二、三の物をあちこちへ動かし、身動きもしないでいるクリストフのほうをふたたびながめた。自分がいかに同情してるかを告げたかった。しかしクリストフがいかにも晴れやかな顔をしてるので、彼はどんな言葉もみなそぐわないのを感じた。彼自身のほうがむしろ慰安を求めてるほどだった。彼はおずおずと言った。
「もう帰ります。」
クリストフは振り向きもしないで言った。
「ではまた。」
ジョルジュは外に出て、音のしないように扉《とびら》を閉めた。
クリストフは長い間そのままでいた。夜となった。彼は苦しみもしなかったし、考えもしなかった。なんらのはっきりした形象もなかった。ある朧《おぼ》ろな音楽に理解しようともせずに聞き入ってる、疲れきった人に似ていた。夜が更《ふ》けたころ、彼は気力つきて立ち上がった。寝床の中に飛び込んで、重い眠りにはいった。交響曲《シンフォニー》はなお響いていた。
そして今、彼は彼女[#「彼女」に傍点]を見た、いとしき彼女を……。彼女は彼のほうへ両手を差し出し、微笑《ほほえ》みながら言っていた。
「もうあなたは火界を通り越しました。」
すると彼の心は和らいだ。平安が星
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