でしようという滑稽《こっけい》な考えはいだかなかった。彼女はきわめて怜悧《れいり》であって、自分の限度を心得ていた。しかし彼女の正しい純なる声は、彼が自分の魂の調子を合わせる音叉《おんさ》だった。彼はその声が自分の思想を反響するのが前もって聞こえる気がして、もうそれだけで、反響されるに足る正しい純潔なことをしか考えなかった。りっぱな楽器の音は音楽家にとっては、自分の夢想がすぐに具現される一つの美しい身体に等しいものである。たがいに愛する二つの精神の融解の不可思議さよ。たがいに相手の有するよきものを奪い合う。しかしそれも自分の愛でそれを豊富にして返さんがためにである。グラチアはクリストフに自分が彼を愛してることを憚《はばか》らず言っていた。遠く離れてるために彼女は前よりいっそう自由に話をするようになっていた。それはまた、けっして自分は彼のものとなることがないだろうという確信のためでもあった。宗教的な熱情を伝えるその愛は、彼にとっては平安の源泉であった。
 その平安を、グラチアは自分がもってる以上に与えていた。彼女の健康は破られ、彼女の精神的平衡はひどく害された。息子《むすこ》の容態もよくはなかった。彼女は二年来たえず危惧《きぐ》のうちに暮らしてきた。そしてその危惧は、リオネロから残忍な才能で弄《もてあそ》ばれるだけにいっそう募っていった。リオネロは自分を愛してくれる人々をいつも不安がらせる術においては、みごとな腕前を習得していた。同情を起こさせたりするために、彼の隙《ひま》な頭脳はいろんな手段を考え出した。それが一種の病癖となってしまった。そして悲しむべきことには、彼が病気を装ってるうちに、病気は実際に進んでいた。そして死が門口に姿を現わした。なんたる劇的皮肉ぞ! グラチアは幾年となく息子の仮病に悩まされてきたので、実際彼が病気になってももうそれを信じなかった……。人の心には限度がある。彼女は嘘《うそ》にたいして自分の同情の力を使い果たしていた。リオネロがほんとうのことを言っても彼女はそれを芝居だと見なした。そしてほんとうのことが明らかになったあとでは、彼女の残りの生涯は悔恨の念に毒されてしまった。
 リオネロの意地悪はいつまでも和らがなかった。彼はだれにたいしても愛の心をもっていないくせに、周囲の人々のだれかが自分以外の者を愛するのを許し得なかった。嫉妬《しっと》が彼の唯一の熱情だった。彼はクリストフから母を首尾よく遠ざけただけでは満足しなかった。二人の間になお残ってる交誼《こうぎ》をも無理に破らせようとした。彼はいつもの武器――病気――を用いて、再婚しないことをグラチアに誓わしてしまったが、その約束だけでは承知しなかった。もうクリストフへ手紙を書かないということを要求しだした。そのときだけは彼女も逆らった。そういう権力の濫用に会って彼女はかえって解放された気になって、彼の嘘についてひどくきびしい言葉を言いたてた。あとになって彼女は罪をでも犯したようにみずからとがめた。というのは、そのためにりオネロは癇癪《かんしゃく》を起こしてほんとうに病気になった。それを母が信じないのでなおいっそう病気になった。すると彼は腹だちまぎれに、意趣返しのため死んでやろうと願った。その願いが遂げられようとは夢にも知らなかった。
 子供の生命はもう駄目《だめ》だということを、医者が余儀なくグラチアへもらしたとき、彼女は雷にでも打たれた心地がした。それでも、自分をしばしば欺いた子供をこんどはこちらから瞞《だま》すために、絶望の念を隠しておかなければならなかった。子供のほうでは、こんどは重大なことだと薄々気づいていたが、それを信じたくなかった。嘘《うそ》をついてるときには嘘にたいする叱責《しっせき》をひどく怒ったくせに、今はその叱責の色を母の眼の中に見つけようとした。そのうちにもはや疑えない時が来た。それは彼にとっても家じゅうの者にとっても恐ろしいものだった。彼は死にたがらなかった……。
 子供がついに永眠したのを見たとき、グラチアは泣き声もたてなければ悲しみを訴えもしなかった。家の人たちは彼女の沈黙に驚かされた。彼女にはもう苦しむだけの力もあまり残っていなかった。彼女はただ一つの願いしかもたなかった。こんどは自分が永眠すること! それでも彼女は外見上同じ落ち着きで日々の務めを果たしていった。数週間後には、以前よりも言葉少なになったその口にふたたび微笑まで現われた。だれも彼女の寂寞《せきばく》たる心に気づく者はなかった。クリストフはなおさら気づかなかった。彼女は彼に子供の死を知らしただけで、自分のことは何にも述べなかった。不安な情愛にあふれてるクリストフの幾度もの手紙に、彼女は返事も出さなかった。彼はやって来たがったが、そんなことをしてくれるなと彼女は頼
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