ジョルジュ・ジャンナンは母の肉体に魅せられていた。彼女の声や身振りや動作や容色や愛撫《あいぶ》を好んでいた。しかし精神的には彼女と別人であることを感じていた。彼女がそれに気づいたのは、彼が初めて青春の気にそそられて彼女から遠く逃げ出したときにであった。そのとき彼女は驚きまた憤って、彼が自分から遠ざかったのは他の女の影響のせいだとした。そうしてその影響をへまに追いのけようとしながら、ますます彼を遠ざけるばかりだった。が実際においては、二人はやはり相並んで生活をしていて、どちらも異なった事柄に心を奪われてはいたが、しかし皮相な同感や反感をたがいに通じ合っていて、二人を隔ててる事柄をよく見てとってはいなかった。そしてそういう感情の共通からは、子供(まだ女の香《かお》りに浸ってる模糊《もこ》たる存在)から一個の男子が現われてきたときには、もう何にも残らなかった。ジャックリーヌは苦々《にがにが》しげに息子《むすこ》へ言った。
「あなたはだれの血を受けたんでしょうね? お父さんにも私にも似ていません。」
そういうふうにして彼女は、二人を隔ててるものをことごとく彼に感じさせてしまった。彼はそのために、不安な焦燥の交じったひそかな高慢を覚えた。
相次いで来る二つの時代の人々は、常に自分たちを結びつける事柄によりも自分たちを引き離す事柄のほうにより多く敏感である。彼らはたとい自分自身を害《そこな》いもしくは欺いても、自分の生活の重要さを肯定したがる。しかしそういう感情は、時期によって多少鋭鈍の差がある。文化の各種の力がしばらく均衡を保つ古典的年代にあっては――急坂に取り巻かれてるその高原においては――一つの時代とつぎの時代との間の水準の差はさほど大きくない。しかし復興期や頽廃《たいはい》期の年代にあっては、眩暈《めまい》するような急坂を登り降りする青年らは、前時代の人々を背後に遠く残してゆく。――ジョルジュは同年配の人々とともに、山を登っていた。
彼は精神においても性格においても、卓越したものを何一つもっていなかった。上品な凡庸さの域を出でない各種の能力を一様にそなえていた。それでも彼は、ごく短い生涯《しょうがい》のうちに莫大《ばくだい》な知力と精力とを使った彼の父より、生涯の初めにおいてしかも努力せずに、すでに数段高い所に立っていた。
理性の眼が明るみに向かって開けるや否や、彼は自分の周囲に見てとった、眩《まぶ》しい光輝に貫かれたる暗黒の集団を、父親が焦慮しながら迷い歩いた、知識と無識と害悪な真理と矛盾的な誤謬《ごびゅう》との堆積《たいせき》を。しかし彼はまた同時に、自分の手中にある一つの武器、オリヴィエがかつて知らなかった武器、すなわちおのれの力を、意識したのだった……。
その力はどこから彼に来たのか?……それこそ、疲れきって眠っていたのが春の渓流のように満ちあふれて眼覚《めざ》めてくる、民族の復活の神秘である……。彼はその力をどうするつもりだったか? 近代思想界の紛糾した茂みを探険することにみずから使うつもりだったろうか。否彼はそういう茂みに心ひかれなかった。彼はそこに待ち伏せてる危険の脅威を重々しく身に感じていた。彼の父はそれらの危険に圧倒されたのだった。その経験を繰り返して悲劇の森にはいり込むよりはむしろ、その森に火を放ってしまいたかった。オリヴィエが心酔していた書物、知恵もしくは聖なる狂愚のあれらの書物を、彼はただちょっとのぞき込んだばかりだった。トルストイの虚無的な憐憫《れんびん》、イプセンの陰鬱《いんうつ》な破壊的高慢、ニーチェの熱狂、ワグナーの勇壮な肉感的な悲観、などにたいして彼は、憤怒と恐怖とを感じて顔をそらした。また、半世紀の間芸術の喜悦を滅ぼした写実主義の作家らを憎んだ。それでもやはり、幼年時代に甘やかされた悲しい夢の影をまったく消し去ることはできなかった。後ろを振り返ってながめようとはしなかったけれど、自分の後ろにその夢の影があることをよく知っていた。彼はあまりに健全であって、前時代の怠惰な懐疑主義のうちに自分の不安をそらそうとはしなかったので、ルナンやアナトール・フランス流の享楽主義を忌みきらった。この享楽主義こそは、自由な知力の堕落であり、喜びのない笑いであり、偉大を伴わない皮肉であって、自分の身をつないでる鎖をこわすだけの力がなくてそれを弄《もてあそ》んでる奴隷にはよい手段かもしれないが、普通の者にとっては恥ずべき手段であった。
彼は疑惑で満足するにはあまりに強健だったし、確信をみずから造り上げるにはあまりに弱かった。しかも確信をしきりに欲していた。確信を求め、切望し、要求していた。しかるに、いつも人気を漁《あさ》ってる人々、似而非《えせ》大作家ども、機会をねらってる似而非思想家どもは、太鼓を打ちた
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