の幌《ほろ》の下の二人に湿気が沁《し》み通ってきた。二人はたがいにひしと寄り添って黙っていた。ほとんど顔をも見合わさなかった。昼とも夜ともつかない妙な薄ら明かりに、二人は包み込まれていた。グラチアの息はそのヴェールをしっとりと濡《ぬ》らしていた。彼は冷たい手袋の下の温かい小さな彼女の手を握りしめていた。二人の顔はたがいに触れ合った。濡れたヴェール越しに、彼は親愛なその口に接吻《せっぷん》した。
 もう道の曲がり角まで来ていた。彼は馬車から降りた。馬車は霧の中に没していった。彼女の姿は見えなくなった。彼はなお車輪の音と馬の蹄《ひづめ》の音とを聞いていた。白い靄《もや》が一面に牧場の上を流れていた。凍った樹木の込み合った枝から雫《しずく》がたれていた。そよとの風もなかった。霧のために生き物の気は搦《から》められてしまっていた。クリストフは息がつけなくて立ち止まった……。もう何物もない。すべてが過ぎ去ってしまった……。
 彼は霧を深く吸い込んだ。彼はまた道を歩きだした。過ぎ去ることのない者にとっては、何物も過ぎ去りはしないのだ。
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     三


 愛せられてる人々のもつ力は、離れているときにますます大きくなる。愛する者の心は、彼らのうちのもっとも懐《なつ》かしい事柄ばかりを覚えている。遠く離れた友からはるかに伝わってくるおのおのの言葉の反響は、敬虔《けいけん》な震えを帯びて静寂のうちに鳴り響く。
 クリストフとグラチアとの音信は、もはや恋愛の危険な試練の時期を通りすぎて、己《おの》が道を確信しながら、たがいに手を取って進んでゆく夫婦に見るような、自分を押えた真面目《まじめ》な調子になっていた。どちらも、相手を助け導くほどしっかりしていたし、また、相手から助け導かれるほど弱かった。
 クリストフはパリーへもどった。もうパリーへはもどるまいとみずから誓っていたけれど、そんな誓いが何になろう! 彼はパリーでなおグラチアの影が見出されることを知っていた。そしていろんな事情は、彼のひそかな願望といっしょになって彼の意志に反対して、パリーで新たな義務を果たさなければならないことを彼に示した。上流社会の日常の出来事に精通してるコレットは、クリストフへその年若い友ジャンナンが馬鹿《ばか》げた道へ進んでることを知らした。子供にたいしていつも非常に気弱だったジャックリーヌは、もう子供を引き止めようとはしなかった。彼女自身も特殊な危険を通っていた。あまり自分のことばかりにとらわれて、子供のほうへ心を配る余裕がなかった。
 自分の結婚とオリヴィエの生活とを破壊したあの悲しむべき暴挙以来、ジャックリーヌはごくりっぱな隠退的な生活を送っていた。パリーの社交界は、偽善家ぶって彼女を排斥した後、ふたたび彼女へ握手を求めてきたが、彼女はそれをしりぞけて、一人離れて立っていた。彼女はそれらの連中に向かっては、自分の行動を少しも恥ずかしいとは思わなかった。彼らにたいして引け目があるとは考えなかった。なぜなら彼らは彼女より下等だったから。彼女が率直に実行したようなことを、彼女の知ってる大半の女たちは、家庭の庇護《ひご》のもとにこっそり行なっていた。彼女はただ、自分のもっともよい友にたいして、自分の愛したただ一人の者にたいして、どういう害を加えたかということだけを苦しんだ。かくも貧弱な世の中において彼がような愛情を失ったということを、彼女はみずから許しがたく思った。
 そういう後悔や苦しみは、少しずつ薄らいでいった。今はただ、ひそかな悩みと、自分および他人にたいする気恥ずかしい蔑視《べっし》と、子供にたいする愛とだけが、なお残ってるばかりだった。愛したい欲求がことごとく注ぎ込まれてるその愛情のために、彼女は子供にたいしてまったく無力となった。彼女はジョルジュの気紛れに逆らうことができなかった。自分の気弱さを弁解するためには、オリヴィエにたいする罪をこれで償ってるのだと考えた。激しい愛情の時期と懶《ものう》い冷淡の時期とが交々《こもごも》やってきた。あるいは落ち着かない気むずかしい愛情でジョルジュを飽かせることがあったし、あるいは彼に飽きはてたがようにそのなすままに任せることがあった。彼女は自分がよくない教育者であることを知っていて、それを苦にしたが、しかし何一つやり方を変えなかった。行為の原則をオリヴィエの精神に合致させようとしても(それもごくまれにしか試みなかったが)、結果はあまりあがらなかった。そういう道徳上の悲観主義は、彼女にもまた子供にも適しなかった。要するに彼女は、愛情の権力以外の権力を子供にたいしてもちたくなかった。そしてそれは誤りではなかった。なぜなら、この二人はいかにも似寄ってはいたけれど、その間には心よりほかの繋《つな》がりはなかった。
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