る。
そして二人は大きな静安に取り巻かれていた。
グラチアの健康は衰えていった。彼女は絶えず床についていたり、または幾日も長|椅子《いす》に横たわっていなければならなかった。クリストフは毎日やって来て、話をしたりいっしょに書物を読んだり、あるいは新作の曲を示したりした。彼女は椅子から立ち上がって、脹《ふく》れた足で跛をひきながらピアノのところへ行き、彼がもって来た曲をひいてやった。それは彼女が彼に与える最上の喜びだった。彼が育て上げたすべての弟子のうちで、彼女はセシルとともにもっとも天分に豊かだった。しかも、セシルがほとんど理解なしにただ本能で感じてる音楽も、グラチアにとっては、意味の明らかな一つの流麗な言語だった。人生および芸術の悪魔趣味は全然彼女にはわからなかった。彼女はそこに自分の聡明《そうめい》な心の光を注ぎ込んでいた。その光がクリストフの天才中に沁《し》み込んでいった。彼女の演奏を聞いて彼は、自分の表現した朦朧《もうろう》たる熱情をいっそうよく理解した。彼は眼をつぶって彼女の演奏に耳を澄まし、自分の思想の迷宮の中を彼女につかまってあとからついていった。彼女の魂を通して自分の音楽に生きることによって、彼はその魂を娶《めと》りその魂を所有した。その神秘な結合から、混和した彼ら二人の果実とも言うべき音楽作品が生まれてきた。彼はある日、自分の実質と彼女の実質とで織り出された作曲集を彼女にささげながら、そのことを彼女へ言った。
「私たちの子供です。」
二人いっしょにいても離れていても、常に破れることのない一致同心。古い家の沈静ななかで過ごす宵々《よいよい》の楽しさ。その古い家では、あたりの様子がグラチアの面影にちょうどふさわしく、またその無口な懇切な召使たちは、彼女にいかにも忠実であって、その女主人にささげてる敬愛を多少、クリストフの上にも移していた。また、過ぎゆく時《タイム》の歌を二人で聞き、流れ去る生の波を二人で見るの喜び……。そういう幸福の上に、グラチアの健康の衰えは一つの不安な影を投じた。しかし彼女は種々の軽い患《わずら》いにもかかわらず、非常に晴れ晴れとしていたので、その隠れた病苦もただ彼女の魅力を増すばかりだった。彼女は彼にとって「光り輝いた顔をしてる親愛な病める傷《いた》ましい友」であった。そして彼は、彼女のところからもどってきて、愛情で胸がいっぱいになり、それを彼女に言うのが翌日まで待てないような晩には、彼女に手紙で書き贈った。
――愛《いと》しき愛しき愛しき愛しきグラチアよ……。
そういう平安が数か月つづいた。二人はそれが永久につづくものだと思っていた。子供は二人のことを忘れてしまってるかのようだった。彼の注意は他にひかれていた。しかしその猶予のあとに、彼はまた二人のほうへもどってきてもう二人から離れなかった。この呪《のろ》うべき子供は母をクリストフから引き離そうと考えていた。彼はまた例の芝居をやり始めた。前もって一定の計画をたてはしなかった。その日その日の意地悪な出来心に従った。そして自分がどんな害悪を行なってるかは少しも知らなかった。他人を困らせながら自分の退屈晴らしをしようとしていた。母がパリーから立ち去ることを、母といっしょに遠くへ旅することを、たえずせがんだ。グラチアは彼に逆らうだけの力がなかった。その上医者たちからはエジプトに行けと勧められていた。北方の気候でこの冬を送ることは避けなければいけなかった。あまりいろんな打撃を受けすぎていた。最近数年間の精神感動、息子《むすこ》の健康状態にたいする絶えざる心配、長い間の不安定な心、少しも外に現わさないでいる内心の戦い、友の心を悲しませてるという悲しみなど。クリストフは彼女が苦しんでるのを察して、その苦しみをさらに募らせないようにと、別離の日が近づくのを見て自分が感じてる苦しみを、彼女には隠しておいた。彼はその日を遅らせようとは少しもしなかった。そして二人はどちらも平静を装った。二人とも平静さをもってはいなかったが、それをたがいに伝えることはできた。
ついにその日が来た。九月のある朝だった。二人は七月の半ばにパリーを発《た》って、残ってる最後の数週間を、アンガディーヌでいっしょに過ごした。それは二人がめぐり会った場所の近くで、もうあれから六年になるのだった。
五日前から二人は外に出られなかった。雨がしきりなしに降りつづいた。旅館に残ってるのはほとんど彼らきりだった。旅客はたいてい逃げ出してしまっていた。その最後の日の朝になって、雨はようやく降りやんだ。しかし山はまだ雲に包まれていた。子供たちは召使たちといっしょに第一の馬車で先に出かけた。つぎに彼女も出発した。イタリー平野のほうへ羊腸たる急な下り道となってる所まで、彼は見送っていった。馬車
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