そしていつかは、彼がもう夢想してもいない大きな幸福を与えてやって、彼の妻となろうと考えていた。
 彼は彼女に断わられてからもう二度と結婚のことを口にしなかった。結婚なんかは自分に許されていないと思っていた。しかしその不可能な希望を愛惜する情は消えなかった。彼女の言葉をいかにも尊重してはいたが、結婚というものを批判する彼女の悟り澄ました態度には、やはり賛同できなかった。深い敬虔《けいけん》な愛で愛し合ってる二人の者の結合は、人間の幸福の絶頂であるということを、彼はなお信じつづけていた。――そして彼の未練の念は、アルノー老夫妻と出会ってさらに新たになった。
 アルノー夫人は五十歳を越していた。夫は六十五、六歳になっていた。二人とも年齢よりははるかに老《ふ》けていた。彼は肥満していたし、彼女は痩《や》せ細って少し皺《しわ》寄っていた。背からすでに細そりしていた彼女は、もはや息の根ばかりになっていた。夫が職を退いてから、二人は田舎《いなか》の家に隠退していた。二人を時代に結びつけるものは、配達される新聞ばかりだった。小さな町と眠ってる二人の生活との懶惰《らんだ》の中に、その新聞は世間の雑事の時おくれた反響をもたらしてきた。あるとき彼らは新聞の中でクリストフの名前を見た。アルノー夫人は心こめたやや儀式ばった数行の手紙を書いて、彼の成功を自分たちが喜んでる旨を告げた。彼はその手紙を見るとすぐに、前触れもせずに汽車に乗って出かけた。
 彼が着いたとき、彼らは庭に出ていて、夏の暑い午後を、丸|傘《がさ》のように茂った秦皮《とねりこ》の下でうつらうつらしていた。手を取り合って青葉|棚《だな》の下で居眠ってるベックリンの老夫婦に似ていた。日光と眠りと老衰とに彼らはうち負けている。もう衰えきってすでに半ば以上永遠の夢の中に没している。そして生命の最後の輝きとして、彼らの愛情が、手と手との接触が、消えゆく身体の温《ぬく》みが、終わりまで残っている……。――二人はクリストフの訪問を非常に喜んだ。彼によって過去のことをいろいろ思い出したからだった。遠くから見ると光り輝いてるように思われる昔のことを、彼らは話しだした。アルノーは自分から話すのを喜んだ。しかし人の名前を忘れていた。で夫人はそれを言ってやった。彼女は好んで黙っていた。しゃべるよりも聴いてるほうを好んだ。しかし彼女の黙々たる心のうちには、昔のいろんな面影があざやかに残っていた。あたかも小川の中の光った小石のように、それらの面影はちらちらと見え透いていた。クリストフはやさしい同情で自分をながめてる彼女の眼の中に、それらの面影の一つが幾度も映ってくるのを見てとった。しかしオリヴィエという名前は一度も口に上らなかった。アルノー老人は細君にたいして、無器用な痛切な注意を配っていた。彼女が寒気あるいは暑気に中《あた》りはすまいかと心配していた。その色|褪《あ》せた親愛な顔を不安げな愛情で見守っていた。すると彼女は疲れた微笑で彼を安心させようとしていた。クリストフは感動してやや羨《うらや》ましげに二人を観察した……。いっしょに年を取ってゆく。自分の伴侶《はんりょ》のうちに老年の衰えまでも愛する。そしてこう考える。「眼のそばの、鼻の上の、お前のその小さな皺《しわ》を、私はよく知っている。それが刻まれるのを私は見てきた。いつそれができたかを私は知っている。お前のその憐《あわ》れな灰色の髪は、私とともに日に日に色を失ってきた、そして悲しいかな、多少は私のせいで色を失ってきたのだ! お前の貴《とうと》いその顔は、私ども二人を焦燥さした疲労と苦心とのために、ふくらんで赤くなったのである。私の魂よ、私とともに苦しみ年老いてきたお前を、私はどんなにかいっそう愛してることだろう! お前の皺の一つ一つは、私にとっては過去が奏《かな》でる一つの音楽である。」……相並んで長い間の生を営んできた後、暗黒の平和の中に相並んで眠りに行く、見るも楽しい老人たち! 彼ら二人の様子を見るのは、クリストフにとっては慰安でもあればまた苦痛でもあった。おう、生は、そして死は、こんなだったらいかに美しいことであろう!
 彼はつぎにグラチアに会ったとき、その訪問の話をせずにはいられなかった。彼はその訪問によって呼び起こされた考えを彼女に言いはしなかった。しかし彼女は彼のうちにその考えを読みとった。彼は話しながら心を他処《よそ》にしていた。眼をそらしていたし、ときどき口をつぐんだ。彼女は彼をうちながめ、微笑を浮かべていた。そして彼の心乱れは彼女にも伝わっていった。
 その晩、彼女は自分の室に一人きりとなったとき、じっと夢想に沈んだ。彼女はクリストフの話をみずから繰り返してみた。しかし彼女がその話を通して見た面影は、秦皮《とねりこ》の木陰に居眠ってる老夫
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