婦のそれではなかった。友の内気な熱烈な夢想であった。そして彼女の心は愛でいっぱいになった。燈火を消して床にはいってから、彼女は考えた。
――そうだ、そんな幸福が得らるる機会をのがすのは、ばかばかしい罪深いことに違いない。自分の愛する人を幸福にしてやる喜びほど、貴い喜びが世にあろうか?……おや、私はあの人を愛しているのかしら?
彼女は口をつぐみ感動しながら、心の答えに耳を傾けた。
――私はあの人を愛している。
ちょうどそのとき、かわき嗄《しわが》れた急な咳《せき》の音が、子供たちの眠ってる隣室に起こった。グラチアは耳をそばだてた。男の子の病気以来彼女はいつも不安な心地になっていた。彼女は彼に尋ねかけた。彼は返辞もしないで咳をつづけた。彼女は寝床から飛び出して彼のそばへ行った。彼はいらだっていて駄々《だだ》をこね、加減がよくないと言い、言いやめて咳をした。
「どこが悪いの?」
彼は答えなかった。苦しいと呻《うめ》き声を出した。
「いい児《こ》だからね、さあ、どこが悪いかと言ってごらんなさい。」
「わからない」
「ここが苦しいの?」
「ええ、いいえ。わからない。身体じゅうが苦しい。」
そして彼はまた新たに激しく無性に咳《せ》きこんだ。グラチアはびっくりした。彼女はちょっと彼が無理に咳をしてるような気がした。しかし彼が汗を流し息をはずませてるのを見るとみずからそれをとがめた。そして彼を抱擁してやり、やさしい言葉をかけてやった。彼は落ち着いてくるようだった。けれど彼女がそばを離れようとすると、彼はすぐにまた咳を始めた。彼女は震えながら彼の枕頭《ちんとう》についていなければならなかった。彼は彼女が着物を着に立ち去ることさえ許さなかったし、彼女に手を握っていてもらいたがった。そして寝入るまで彼女を少しも離さなかった。彼が寝入ってから彼女は、凍え慴《おび》え疲れはてて床にはいった。そしてふたたび自分の夢想を呼び出すことはできなかった。
この子供は母親の考えを読みとることに不思議な能力をそなえていた。同じ血を分けた人々の間にはそういう本能的な才能がしばしば――しかしこれほどの程度のは珍しいが――見出されるものである。相手の考えてることを知るためには、ほとんどその顔を見るにも及ばない。眼にも止まらぬ多くの兆候で推察してしまう。共同の生活によって強めらるるそういう天性は、リオネロのうちでは、常に働いてる悪意のためにいっそう鋭くなっていた。人を害《そこな》いたい願望から来る明敏さを彼はもっていた。彼はクリストフをきらっていた。なぜだったろうか? いったい子供はなにゆえに、自分に何も悪いことをしない者をも気嫌《けぎら》いするのか? それは偶然なことが多い。ふとある人をきらってると思い始めただけで、それが習慣となってくる。人から説きさとさるればさとさるるほど、ますます強情になってゆく。初めきらってるふうをしているうちに、ついにはほんとうにきらうようになる。しかしまたある場合には、子供の精神の及ばないいっそう深い理由が存することもある。子供はそれを気づきだにしない……。ベレニー伯爵の息子《むすこ》は初めてクリストフに会ったときから、母が愛したことのあるその男にたいして敵意を感じた。グラチアがクリストフと結婚しようと思い始めたちょうどそのときから、彼は明確な本能の直覚力を得てきたかのようだった。それ以来彼はたえず二人を監視していた。クリストフがやって来るときには、いつも二人の間にいて客間を去りたがらなかった。あるいは二人がいっしょにいる室へ突然|闖入《ちんにゅう》するように振る舞った。それのみならず、母が一人きりでいてクリストフのことを考えてるときには、そのそばにすわって様子を窺《うかが》っていた。彼女はその眼つきに当惑して、顔を赤めることさえあった。そして自分の心乱れを隠すために立ち上がるのだった。――彼は母の前で、クリストフの悪口を言うのを面白がった。彼女は黙るようにと願った。彼はしつこく言いつづけた。もし彼女から罰せられようとすると、病気になりかかって嚇《おど》かした。それは彼が幼少なときから用いて成功してる策略だった。ごく幼いころ彼はあるときしかられて、その意趣返しにふと思いついて、ひどい感冒にかかるため、着物をぬいで真裸のまま床《ゆか》の上に寝たことがあった。――あるとき、クリストフがグラチアの祝い日のためにみずから作った楽曲をもって来ると、子供はその楽譜を奪い取ってなくしてしまった。その引き裂かれた紙片がある木箱の中から出て来た。グラチアは我慢しかねて彼をきびしくしかった。すると彼は泣き叫びじだんだ踏み転《ころ》がり回った。そして神経の発作を起こした。グラチアは狼狽《ろうばい》して、彼を抱擁し懇願し、なんでも望みどおりにしてやると
前へ
次へ
全85ページ中48ページ目
小説の先頭へ
文字数選び直し
ロラン ロマン の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ
登録
ご利用方法
ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング