抗しないかとみずから責めた。時とすると、彼に知らせないようにして、ほんとうの献身的な行ないを彼のためにすることもあった。しかし結局のところ天性は彼女自身の力よりも強かった。そのうえ彼女は、クリストフから命令的な様子をされるのを許し得なかった。そして、一、二度、自分の独立を肯定するために、彼の望みに反することをもなした。そのあとで彼女は後悔した。夜になると、彼をもっと楽しくさしてやらないことが心苦しくなった。彼女は実際様子に示すよりもずっと多く彼を愛していた。彼との友誼《ゆうぎ》は自分の生活のもっともよい部分であることを感じていた。ごく性質の異なった二人の者が愛し合うときによく起こるとおり、彼らはいっしょにいないときにもっともよく結ばれていた。実を言えば、たがいによく理解しなかったために二人の運命が別々のものとなったのも、クリストフがすなおに考えているように、その罪は全部クリストフにあるのではなかった。グラチアは昔クリストフをもっとも深く愛していたときでさえ、彼と結婚しただろうか? おそらく自分の一生を彼にささげはしたろう。しかし彼とともに一生暮らすことを承諾したろうか? 彼女は自分の夫を愛してきたこと、いろいろひどい目に会わされたあとの今日でもなお、クリストフにたいするのとは違った愛し方をしてること、それをみずから知っていた(クリストフへは打ち明けることを差し控えていたが)……。それはあまり誇りにはならない、心の秘密であり身体の秘密である。そして自分の親愛な人々に向かっては、自分自身にたいする甘い憐《あわ》れみの念とともにまた彼らにたいする尊敬の念から、人はそれを隠すものである……。クリストフはあまりに男性的だったから、それを察知することができなかった。しかしながら、自分をもっともよく愛してくれてる彼女が、いかに自分に執着してることが少ないかを――そして、人生においてはまったくだれをも当てにできないことを、ちらと感ぜさせらるることがよくあった。それでも彼の愛は変わらなかった。それでも彼はなんらの憂苦をも覚えなかった。グラチアの和気が彼の上にも広がっていた。彼はありのままを受けいれた。おう人生よ、汝《なんじ》が与え得ないものについてなんで汝を非難しようぞ。汝はそのままできわめて美しくきわめて神聖ではないか。汝の微笑を愛さねばならないのだ、ジョコンダよ……。
 クリストフは友の美しい顔をしげしげと見守った。そしてそこに過去と未来との多くのものを読みとった。多年の間旅をしてあまり口をきかず多くながめて一人で暮らしてるうちに、観相の術を、長い時代をへてでき上がった豊富複雑な言語を、彼は習得したのだった。それは口に話される言語よりもはるかに複雑なものであって、種族がおのれを表現するのはその言語においてである……。ある顔だちの線とその口に上る言葉との間の不断の対照。たとえばある若い女の横顔は、さっぱりした輪郭をし、やや冷やかでバーン・ジョーンズ式で、悲壮味があり、あるひそかな熱情に、ある嫉妬《しっと》に、あるシェイクスピア風の苦悶《くもん》にさいなまれてるかのようである……。しかるに口をきくときには、ちっぽけな中流婦人であり、馬鹿げきった者であり、凡庸な嬌態《きょうたい》と利己心とを現わし、自分の肉体に印刻されてる恐ろしい力にたいしては、なんらの観念をももっていない。それでも、その情熱は、その暴慢な力は、彼女のうちにある。他日いかなる形でそれが現われるだろうか。辛辣《しんらつ》な利得心か夫婦間の嫉妬かりっぱな精力か、それとも病的な悪意なのか? だれにもわかるものではない。あるいはまた、それは爆発の時が来ない前に、血縁の者へ伝えられてしまうかもしれない。しかしこの成分こそ、宿命のように種族の上を翔《かけ》ってるものである。
 グラチアもまた、古い家庭の世襲財産のうちでもっとも中途で分散しがたい、そういう混濁した遺産の重荷をもっていた。彼女は少なくともその遺産がどういうものであるかを知っていた。自分の弱点を知っていて、人を結びつけ人を船のように運び去る種族の魂の、支配者とはならないまでも、せめて水先案内者となることは――宿命を自分の道具となして、風に従ってあるいは張りあるいはたたむ帆のように、それを使いこなすことは、一つの大なる力である。グラチアは眼を閉じると覚えのある音色の不安な声を、一つならず自分のうちに聞きとるのだった。しかし彼女の健全な魂の中では、不調和な種々の声音もたがいに融《と》け合ってしまっていた。そして彼女のなごやかな理性に制せられて、一つの深い滑《なめ》らかな音楽となっていた。

 不幸にも、われわれの血潮のもっともよきものを血縁の者に伝えることは、われわれの思いどおりになるものではない。
 グラチアの二人の子供のうちで、女
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