を、彼から窓の前にさし示されたとき、彼女は言った。
「これからどうするかおわかりになりまして? おやつをいただくんですよ。私はお茶とお菓子とをもってきました。そんなものはあなたのところにないだろうと思ったものですから。それからまだ他にもって来たものがありますよ。あなたの外套《がいとう》をかしてくださいね。」
「私の外套をですか。」
「ええ、ええ、かしてください。」
 彼女は袋から針と糸を取り出した。
「なんですって、あなたは……?」
「先日私が危《あぶ》ないと思ったボタンが二つありましたわ。今日はどうなっていますかしら?」
「なるほど、私はまだそれを付け直そうとも思わなかったんです。嫌《いや》な仕事なものですから。」
「お気の毒にね! かしてくださいよ。」
「恥ずかしい気がします。」
「お茶の用意をしてくださいよ。」
 彼は彼女に一瞬間も無駄《むだ》にさせまいと思って、湯沸かしとアルコールランプとを室の中に運んできた。彼女はボタンを縫いつけながら、彼の無器用な仕事を意地悪く横目でながめていた。二人は罅《ひび》のはいった茶|碗《わん》でお茶を飲んだ。彼女はひどい茶碗だとは思ったが容赦してやった。しかしそれはオリヴィエとの共同生活の名残りだったので、彼はむきになって大事にしていた。
 彼女が帰って行こうとするときに、彼は尋ねた。
「あなたは私を嫌《いや》に思ってはいられませんか。」
「なんで?」
「こんなに散らかっていますから。」
 彼女は笑った。
「これからは片付けることにします。」
 彼女が出口へ行って扉《とびら》を開きかけようとしたとき、彼はその前にひざまずいて、彼女の足先に唇《くちびる》をあてた。
「何をなさるんです?」と彼女は言った。「気違いね、かわいい気違いさん! さようなら。」

 彼女は毎週きまった日にやって来ることとなった。もう突飛な真似《まね》をしないということ、もうひざまずいたり足に接吻《せっぷん》したりしないということを、彼に約束さしておいた。いかにもやさしい静安さが彼女から発していて、クリストフは気分の荒立っているときでさえ、それにしみじみと浸された。そして彼は一人でいると、しばしば熱烈な情欲で彼女のことを考えたけれど、二人いっしょになると、いつも仲のよい友だちという調子になった。彼女を不安ならしむるような言葉も身振りも、かつて一つとして彼からもらされはしなかった。
 クリストフの祝い日には、彼女は昔初めて彼と出会ったときの自分の姿どおりに娘を装わせた。そしてクリストフが昔彼女に繰り返さしたあの楽曲を、娘に演奏さした。
 そういう優雅さ、そういう情愛、そういうやさしい友情には、それと矛盾する感情も交じっていた。彼女は軽佻《けいちょう》であり、社交を好み、馬鹿な連中からでも追従《ついしょう》されると喜んでいた。彼女はかなり婀娜《あだ》っぽかった、クリストフを相手のときは別だったが――しかし時にはクリストフを相手のときにも。彼が彼女にたいしてごくやさしいときには、彼女は好んで冷淡に控え目にした。しかし彼が冷淡で控え目なときには、彼女はやさしくなって彼の情愛をそそるような態度をとった。彼女はもっとも誠直な女だった。しかしもっとも誠直な女のうちにも、時とすると小娘の性質が現われてくるものである。彼女はほどよく人をあしらうことを心がけ、慣習に従うことを心がけていた。音楽にたいする天分が豊かであって、クリストフの作品をよく理解していたが、しかし多くの興味を覚えてはしなかった――(彼もそのことをよく知っていた。)――真のラテンの女にとっては、芸術が価値をもってるのは、ただそれが生活に帰着するかぎりにおいてであり、そして生活が愛に帰着するかぎりにおいてである……愛に、うっとりとした逸楽的な肉体の底に醸《かも》さるる愛に……。北方人が事とする、荒くれた交響曲や、悲壮な瞑想《めいそう》や、知的な愛情などは、彼女にとってなんの役にたとう? 自分の隠れた欲望がもっともわずかな努力で花を咲かせるような音楽、情熱を疲らせることのない熱烈な生とも言うべき歌劇、感傷的な肉感的なしかも怠惰な芸術、それこそ彼女に必要なものである。
 グラチアは意志が弱くて気が変わりやすかった。ときどきしか真面目《まじめ》な勉強にかかり得なかった。気晴らしをせずにはいられなかった。前日言ったことを翌日実行することもめったになかった。児戯に類する仕業《しわざ》や張り合いのない気紛れがあまり多すぎた。女特有の曖昧《あいまい》な性質が、病的な無分別な性格が、ときおり現われてきた……。彼女はそれを自分でもよく知っていて、そんなときには人から遠ざかろうとした。彼女は自分の弱点をよく知っていた。その弱点のために友の心を苦しめるようになるのに、なぜ自分はもっとよくそれに抵
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