かせられるのです……。
彼はわずかな遺産を得ましたが、数か月のうちに早くもそれを使い果たしてしまいました。そして生活に困ってくると、こういう種類の人にありがちな罪深い正直さで、貧乏な娘を誘惑して結婚しました。彼女は音楽を愛してはしませんが、美しい声をもっていて音楽をやっていました。彼は彼女の声とチェロをひき覚えてる凡庸な才能とで生活しなければなりませんでした。もとより彼らはすぐにおたがいの平凡さを見てとって、たがいに我慢できなくなりました。女の児《こ》が一人生まれました。父親はその娘に幻をかけました。自分のなれなかったものに娘がなってくれるだろうと考えました。娘は母親に似ていました。一片の才能もないピアノひきになりました。彼女は父を敬慕していて、父の気に入るように仕事を励みました。彼らは幾年もの間温泉町の旅館を回り歩いて、金銭よりもむしろ多く恥辱を集めてきました。娘は病弱な上に過労のため死にました。細君は力を落として日に日にいらだたしくなりました。それは実に底知れぬ悲惨で、それから脱せられる望みもないし、とうてい実現できないとわかってる理想にたいする感情のために、いっそうひどくなされてる悲惨でした……。
一|生涯《しょうがい》憂苦の連続であるこの憐《あわ》れな落伍《らくご》者を見ながら、わが友よ、私はこう考えたのです。「自分もこうなったかもしれないのだ。その男と自分との幼時の魂には共通の特質がある。そして身の上のある事件も似通っている。音楽上の思想にもある類似点が見出される。ただ彼の思想は中途で止まってしまっただけだ。自分が彼のように没落しなかったのは何によるのか? もちろんそれは自分の意志によるのである。しかしまた人生の偶然事にもよるのである。またたとい意志だけだとしても、自分がその意志を得ているのは、ただ自分の価値だけによるのであろうか? 否むしろ、自分の民族、自分の友人ら、自分を助けてくれた神、によるのではないだろうか?……」こういう考えは人を卑下させます。芸術を愛し芸術のために苦しんでるすべての人にたいして、兄弟らしい感じを起こさせます。もっとも低い者ともっとも高い者との間の距離は大きいものではありません……。
そこで私は、あなたが手紙に書かれていたことを考えました。あなたの言われるところは道理です。芸術家たる者は他人を助け得る間は隠退してはいけない。
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