た。しかし父が存命してる間は、あえて自分の意志を表明しかねました。断然たる処置をとるまでにはまだ時を待たねばならないことを、彼はおそらく苦にはしなかったでしょう。将来自分のなすことやなし得ることなどをぼんやり空想して、一生を過ごしてしまうような者が世にはありますが、彼もその一人でした。さし当たり何にもしませんでした。新しいパリー生活のために惑わされ酔わされて、若い田舎者の乱暴さで、女と音楽との二つの情熱にふけりました。逸楽と音楽会とにのぼせ上がってしまいました。そして幾年も無駄《むだ》に送って、自分の音楽教育を完成するような手段をも講じませんでした。猜疑《さいぎ》的な高慢心と独立的な短気な悪い性質とのために、なんらの稽古をもなしつづけることができず、だれにも助言を求めることができませんでした。
 父が死んだときに彼はテミスとユスティニアヌスとを共に追っ払ってしまいました。そして作曲し始めました。けれど必要な技能を修得するだけの元気はありませんでした。怠惰な彷徨《ほうこう》と快楽の趣味との根深い習慣のために、真面目《まじめ》な努力ができなくなっていたのです。物を感ずることはきわめて鋭敏でしたが、思想は形式とともにすぐ逃げ去ってしまいました。そして結局平凡なことしか表現できませんでした。もっともいけないのは、この凡庸人のうちに何かある偉大なものが実際に存在していたことです。私は彼の旧作を二つ読んでみました。所々に奇警な観念がこもっていて、しかもそれが荒削りの状態のままですぐに変形させられています。泥炭《でいたん》坑の上に鬼火が燃えてるようなものです……。そして彼は実に不思議な頭脳の所有者です。私にベートーヴェンの奏鳴曲《ソナタ》を説明してくれましたが、その中に子供らしい奇体な物語があるのだと見ています。しかし彼は実に熱情家で、どこまでも真面目な男です。ベートーヴェンの奏鳴曲のことを話すときには、眼に涙を浮かべます。愛するもののためになら死んでも恨みとしますまい。滑稽《こっけい》でまた人の心を打つ人物です。私は彼を面と向かってあざけってやりたくなるかと思えば、すぐに抱擁してやりたくなるのが常です……。真底から正直な男です。パリーの各流派の法螺《ほら》と虚偽の光栄とをひどく軽蔑《けいべつ》しています――それでも、成功してる人々にたいしては、小中流人風の無邪気な感嘆の念をいだ
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