ベービの眼を覚《さ》ますかもしれないことなんかは考えもしないで、扉を揺《ゆ》すぶってみた。が扉はびくともしなかった……。彼はそれと悟った。アンナは居室につづいてる化粧室に、小さなガス暖炉をもっていた。その口を開け放したのだった。もう扉を打ち破らなければならなかったけれど、クリストフはその惑乱のうちにも理性を失わないで、どんなことがあってもベービに聞かれてはいけないということを思い出した。彼は無言のうちに、扉の一方を力をこめて押してみた。扉は丈夫でよく締まっていて、肱金《ひじがね》の上に軋《きし》っただけで、少しも動かなかった。他にも一つ扉が、アンナの室とブラウンの書斎との間にあった。彼はそこに駆けていった。その扉も同じく締っていた。しかしその錠前は外側についていた。彼はそれをもぎ取ろうと企てた。それは容易なことではなかった。木にうちつけてある四つの太い捻釘《ねじくぎ》を引き抜かねばならなかった。彼はただナイフをしかもっていなかった。そして何にも見えなかった。というのは、蝋燭《ろうそく》の火をともしかねた。火をともせば、室じゅうを爆発させる恐れがあった。彼は手探りで、一本の捻釘の頭にナイフを差し込むことができ、つぎにも一本の頭に差し込むことができたが、ナイフの刃は欠けるし自分は怪我《けが》をした。捻釘がばかばかしく長いように思われ、いつまでたっても引き抜けそうになかった。そして同時に、冷たい汗が全身に流れるほどの気忙《きぜわ》しないいらだちのうちに、幼時の思い出が一つ頭に浮かんだ。十歳のころ、罰としてまっ暗な室に閉じこめられたときのことを思い出した。彼はその錠前をはずして家から逃げ出したのだった……。ついに最後の捻釘が取れた。錠前がはずれて鋸屑《おがくず》がばらばらと落ちた。クリストフは室の中に駆け込み、窓に駆け寄ってそれを開いた。冷たい空気がどっと流れ込んできた。クリストフは家具につまずきながら、暗闇《くらやみ》の中に寝台を見つけ出し、手探りでアンナの身体を探りあて、その動かない足を震える手で毛布越しにさわり、胴体まで及ぼしていった。アンナは寝床の上にすわって震えていた。窒息の初めの徴候を感ずるだけの隙《ひま》もなかったのである。室は天井が高かった。よく合わさらない窓や扉《とびら》の隙間《すきま》から空気が通っていた。クリストフは彼女を両腕に抱いた。彼女は激しく身を引き離しながら叫んだ。
「あっちへ行ってください!……ああ、あなたは何をしたんです?」
彼女は彼を打った。しかし激情にくじけて、枕の《まくら》上に倒れ伏した。そしてすすり泣いた。
「おお、また今までどおりのことが!」
クリストフは彼女の両手を執りながら彼女を抱擁し、彼女を叱《しか》り、やさしいまた手荒い言葉を言ってやった。
「死ぬんですか! 私を打ち捨てて。一人で死ぬんですか!」
「あああなたは!」と彼女は痛ましげに言った。
その調子には、こういう意味が十分こもっていた。
「あなたは、あなたは生きるのが望みです。」
彼はきびしい言葉を発して彼女の意志をくじいてやりたかった。
「馬鹿な真似《まね》をしますね!」と彼は言った。「家を爆発させるかもしれないのが、わからないんですか。」
「それが私の望みです。」と彼女は憤然として言った。
彼は彼女の宗教上の恐れを呼び覚《さ》まそうとした。それは急所だった。彼がそこに触れるや否や、彼女は泣き声を立てて言ってくれるなと願った。彼は彼女のうちに生きる意志を呼びもどす唯一の方法であると考えて、なお無慈悲に言いつづけた。彼女はもうなんとも言わないで、痙攣《けいれん》を起こしたようにしゃくり上げていた。彼が言い終えると、彼女は恨みをこめた調子で言った。
「もうそれで御満足でしょう。たいへん骨折ってくだすって、私をすっかり絶望さしておしまいなすった。そしてこれから、私はどうしたらいいんでしょう?」
「生きるんです。」と彼は言った。
「生きるんですって!」と彼女は叫んだ。「生きることはとてもできないのが、おわかりにならないんですか。何にも御存じないんですね。何にも御存じないんです!」
彼は尋ねた。
「何かあったんですか。」
彼女は肩をそびやかした。
「こうなんです。」
彼女は短い切れ切れの言葉で、今まで彼に隠していたことをすっかり話した。ベービの間諜《かんちょう》、灰、ザーミとの場面、謝肉祭、さし迫ってる恥辱。彼女はそんなことを話しながら、恐怖のあまり自分でこしらえ出した事柄と、当然恐るべき事柄とを、もう見分けがつかなかった。彼もその話を聞きながら狼狽《ろうばい》して、真実の危険と想像上の危険とを識別することが、彼女よりさらにできなかった。人々からあとをつけられてるとは少しも気づいていなかった。彼は理解しようとつとめた。そして何にも言えなかった。そういう敵にたいしては武器がなかった。彼はただ盲目的な憤怒《ふんぬ》を感じ、打ちのめしたい欲望を感じた。彼は言った。
「なぜベービを追い出さなかったんですか。」
彼女は蔑《さげす》んで答えなかった。ベービは追い出されたら、大目に見られてるときよりもさらに有害となるはずだった。クリストフも自分の問いの無意味なのを悟った。彼の考えはたがいにぶつかり合っていた。彼は取るべき一つの決心を捜し求め、一つの直接行動を捜し求めた。彼は両の拳《こぶし》を握りしめて言った。
「彼奴《あいつ》らを殺してやる。」
「だれを?」と彼女はその無駄な言葉を軽蔑《けいべつ》して言った。
彼は力もぬけてしまった。朦朧《もうろう》たる陰謀の網にとらえられるのを感じた。そこでは何一つはっきりとらえることができないし、しかもすべての人が陰謀の仲間だった。
「卑怯《ひきょう》な奴らが!」と彼はがっかりして叫んだ。
彼は寝台の前にひざまずき、アンナの身体に顔を押し当てて、がっくりとなった。――二人は口をつぐんだ。彼女を守ってくれることも自分自身を守ることもできないこの男にたいして、彼女は軽蔑と憐憫《れんびん》との交じり合った気持を覚えた。彼は自分の頬《ほお》に、アンナの膝《ひざ》が寒さに震えるのを感じた。窓は開かれたままになっていて、外は冷え凍えていた。鏡のように澄みきった空に、冷たい星のおののくのが見えていた。
彼女は自分と同様にくず折れた彼を見て悲痛な喜びを味わったのち、疲れたきびしい調子で言った。
「蝋燭《ろうそく》をつけてください。」
彼は火をともした。アンナは両腕を胸にくっつけ頤《あご》の下に膝を折り曲げて、じっとうずくまりながら、歯をがたがたさして震えていた。彼は窓を閉めた。寝室の上に腰をおろした。氷のように冷たくなってるアンナの足先を両手に取って、それを口や手で温めてやった。彼女は心を動かされた。
「クリストフ!」と彼女は言った。
彼女は悲しげな眼をしていた。
「アンナ!」と彼は言った。
「どうしましょう?」
彼は彼女をながめて言った。
「死にましょう。」
彼女は喜びの声をたてた。
「ああ、あなたはほんとにそうしたいんですか、あなたもそうしたいんですか?……私一人じゃありませんのね!」
彼女は彼を抱擁した。
「では私があなたを打ち捨てるとでも思っていたんですか。」
彼女は低い声で答えた。
「ええ。」
彼は彼女がどんなに苦しんだろうかを感じた。
しばらくして、彼は眼つきで彼女に尋ねかけた。彼女はその意を悟った。
「机の中です。」と彼女は言った。「右のほう、下の引き出し……。」
彼はそこへ行って捜した。引き出しの奥に一|挺《ちょう》のピストルが見えた。それはブラウンが学生時代に買ったもので、かつて使われたことがなかった。クリストフはこわれた箱の中に、数個の弾《たま》を見出した。彼はそれを寝台のところへもって来た。アンナはそれを見て、すぐに壁の裾《すそ》のほうへ眼をそらした。クリストフは待った。それから尋ねた。
「もう嫌《いや》ですか。」
アンナは急に振り向いた。
「いいえ……早く!」
彼女はこう考えていた。
「もうこうなっては、私を永遠の淵《ふち》から救い出してくれるものは何もない。どちらにしても同じことだ。」
クリストフは無器用な手付きでピストルに弾をこめた。
「アンナ、」と彼は震える声で言った、「どちらかが一人の死ぬのを見ることになります。」
彼女は彼の手から武器を引ったくって、利己的に言った。
「私が先に。」
二人はなお見合った……。ああ、おたがいのために死のうとするこの間ぎわになっても、二人はたがいに遠く離れてる気がした!……どちらも慴《おび》えた考えをしていた。
「いったい私は何をしてるのか、何をしてるのか。」
そしてどちらも相手の眼の中にそれを読みとった。その行為のばかばかしさは、ことにクリストフの心を打った。全生活は無益に終わった。奮闘も無益、苦しみも無益、希望も無益だった。すべてが空費されて風に投げ捨てられた。つまらないちょっとした動作で、いっさいが消し去られようとしていた。……尋常の状態にあったら、彼はアンナの手からピストルをもぎ取り、それを窓の外に放り出し、こう叫んだであろう。
「いえいえ、私は嫌《いや》です。」
しかし、八か月間の苦しい悩みと疑惑と哀悼と、なおその上に、狂乱した情熱の突風とは、彼の力を滅ぼし彼の意志をくじいていた。彼はもうどうにも仕方ない気がし、もう自分で自分が自由にならない気がしていた……。ああ、結局、どうだって構うものか!
アンナは永遠の死を確信していて、自分の一身を生命の最後の瞬間の手に委《ゆだ》ねていた。揺《ゆ》らめていてる蝋燭《ろうそく》の火に輝らされたクリストフの痛ましい顔、壁の上に落ちてる影、街路に響くある足音、手に握ってる鉄の感触……。難破者が遺流物に取りすがってそれといっしょに沈んでゆくように、彼女はそれらの感覚にすがりついていた。そのあとでは、すべてが恐ろしくなった。もっと待ってはなぜいけないか? しかし彼女はみずから繰り返した。
「ぜひとも……。」
汽車に乗り遅れはすまいかと気づかって急いでる旅人のようにあわただしく、やさしみのない別れを彼女はクリストフに告げた。そしてシャツを押し開き、心臓を探りあて、そこにピストルの銃先《つつさき》をあてた。クリストフはひざまずいて、夜具の中に顔を隠していた。引き金を引くときに、彼女は左手をクリストフの手にのせた。闇夜の中を歩くのを恐《こわ》がってる子供のような動作だった……。
そして、恐るべき数秒が過ぎた……。アンナは発射しなかった。クリストフは顔をあげたかった。彼女の腕をとらえたかった。がその動作はかえって彼女に発射の決心を決めさせはすまいかと恐れた。彼の耳にはもう何にも聞こえなかった。彼は意識を失っていた……。唸《うな》り声……。彼は身を起こした。見るとアンナは、恐怖に顔の相好《そうごう》をくずしていた。ピストルは寝床の上に彼女の前に落ちていた。彼女は訴えるように繰り返していた。
「クリストフ!……弾《たま》が出ません!……」
彼は武器を取り上げた。長く忘れられてたために錆《さ》びていた。しかし作用が狂ってはいなかった。おそらく弾薬が空気のためにいけなくなってたのだろう。――アンナはピストルのほうへ手を差し出した。
「もうたくさんです!」と彼は嘆願した。
彼女は命令した。
「弾《たま》を!」
彼は弾を渡した。彼女はそれを調べて、中の一つを取り、なお震えつづけながら装填《そうてん》し、ふたたび武器を胸にあてがい、そして引き金を引いた。――やはり発射しなかった。
アンナは室の中にピストルを投げ出した。
「ああ、あんまりだ、あんまりだ!」と彼女は叫んだ。「死ぬことも許されない!」
彼女は夜具にくるまってもがいた。気が狂ったかのようだった。彼は彼女を抱き寄せようとした。彼女は声をたてて押しのけた。しまいに神経の発作に襲われた。彼はそのそばに朝までついていた。彼女もついに気が静まった。しかし息もつかず、眼は閉じ、額や顳※[#「需+頁」、第3水準1−94
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