人の話によると、数年前にある若い娘が、そういう迫害をこうむって、家の者と共にこの土地から逃げ出さなければならなかったそうである……。そしてどうすることもできなかった。弁解することも、事を未然に防ぐことも、どうなるかを知ることさえも、少しもできなかった。疑いは確実よりもいっそういらだたしいものだった。アンナは追いつめられた獣のような眼であたりをながめた。そして自分の家においてさえ、四方から監視されてることを知った。
アンナの女中は、四十歳を越した女で、ベービという名だった。背が高く、強壮で、その顔は、顳※[#「需+頁」、第3水準1−94−6]《こめかみ》や額のほうは狭くて痩《や》せ、下の方は広く長く、頤《あご》の下が脹《は》れていて、ちょうど干乾《ひから》びた梨《なし》のようだった。いつも微笑を浮かべていたが、睫毛《まつげ》の隠れてる赤い眼瞼《まぶた》の下の眼は、深く落ちくぼんで錐《きり》のように鋭かった。気取った快活さの表情をやめたことがなく、いつも主人を喜んでおり、いつも主人と同意見であり、やさしい心づかいで主人の健康を尋ねた。用を言いつけられるときも微笑《ほほえ》んでいるし、小言を言われるときも微笑んでいた。ブラウンは彼女を徹頭徹尾忠誠な女中だと思っていた。彼女の平和な様子はアンナの冷やかさと対照をなしていた。それでも多くの点で彼女はアンナに似寄っていた。アンナと同様に、口数がきわめて少なく、注意を配ったきちんとした服装をしていた。アンナと同様に、きわめて信心深く、いつも礼拝の御供をし、信仰上の務めを正確に果たし、家事の務めに細々《こまごま》と気を配っていた。清潔で時間をよく守り、風儀や料理にかけては欠点がなかった。一言にして言えば、模範的な女中であって、かつ、家庭の害物の完全な標本だった。女性の本能からして女の内心の考えをほとんど見誤ったことのないアンナは、この女中になんらの幻をもかけてはいなかった。二人はたがいに嫌《きら》い合い、嫌い合ってることを知っており、しかもそれを少しも様子に示さなかった。
クリストフがもどってきたその晩、アンナはもうけっして彼に会うまいと決心していたにもかかわらず、悩みに堪えかねて彼のもとへやって行ったとき、暗闇《くらやみ》の中に壁を手探りでこっそり歩を運んだ。そしてクリストフの室にはいりかけると、自分の素足の蹠《あしのうら》に、いつもの滑《なめら》かな冷たい床板の感触ではなしに、柔らかにつぶれる生暖かい塵《ちり》を感じた。彼女は身をかがめて、手でさわってみてそれと悟った。細かな灰が薄《うっ》すらと、二、三メートルの間廊下じゅうにまいてあった。それはベービの仕業であって、ブルターニュの古詩の中で、イズーの寝床にやってゆくトリスタンをとらえるために、小人のフロサンが用いたあの古い策略を、知らず知らず考えついたのだった。善《よ》いことにも悪いことにも、ある少数の見本があらゆる時代に役だつというのは、なるほど真実である。それこそ、世界の賢い経済を示す大なる証拠である。――アンナは少しもためらわなかった。一種の軽蔑《けいべつ》的な豪《えら》がりからやはりつづけて足を運んだ。クリストフの室にはいっても、不安ではあったがなんとも言わなかった。しかし帰りに、彼女は暖炉の箒《ほうき》を取って、通り過ぎたあとで灰の上の足跡を丁寧《ていねい》に消し去った。――その朝アンナとベービとが顔を合わせたとき、一人は例の冷やかな様子をし、一人は例の微笑を浮かべていた。
ベービのもとへはときどき、彼女より少し年上の親戚《しんせき》の男が訪ねてきた。彼は寺院で番人の役目をしていた。勤行《ごんぎょう》の時間には、柄の曲がった籐杖《とうづえ》にもたれて、黒い線と銀の総《ふさ》のある白い腕章をつけ、教会堂の入り口に見張りをしてる、彼の姿が見受けられた。彼の職業は棺桶《かんおけ》屋で、ザーミ・ヴィッチという名前だった。ごく背が高く、痩せていて、頭を少しかがめ、老農夫みたいな真面目《まじめ》な無髯《むぜん》の顔だった。彼はごく信心深かった。そして教区内のあらゆる人の魂についての風説を、ほとんど一つ残らずことごとく知っていた。ベービとザーミとは結婚するつもりでいた。二人はたがいに相手のうちに、真面目な美点や堅固な信仰や悪賢さなどを見てとっていた。しかし彼らは急いできめてしまおうとはしなかった。たがいに用心深く観察し合っていた。――最近にザーミの来訪はいっそう繁《しげ》くなってきた。彼は人に知られないうちにはいって来た。アンナが台所の近くを通りかかるといつも、炉のそばにすわってるザーミと、その数歩わきで仕事をしてるベービとが、ガラス越しに見えていた。二人がいくら話をしようと、少しもその声は他へ聞こえなかった。ベービの陽気な顔と動いてるその唇《くちびる》とが見えていた。ザーミの鹿爪《しかつめ》らしい大きな口は少しも開かずに、苦笑の皺《しわ》を寄せていた。喉《のど》からは少しも声が漏れなかった。まるで沈黙の家のようだった。アンナが台所へはいってゆくと、ザーミは恭《うやうや》しく立ち上がって、彼女が出て行くまで黙ってつっ立っていた。ベービは扉《とびら》の開く音を聞いて、わざとらしく無駄《むだ》話をぷっつりよして、追従《ついしょう》の笑顔をアンナのほうへ向けながら、彼女の言いつけを待った。アンナは二人が自分の噂《うわさ》をしてたのだと思った。しかし彼女は二人をあまりに軽蔑していたので、その話をぬすみ聞きするような卑しい真似《まね》はしなかった。
巧妙な灰の罠《わな》を失敗に終わらせた翌日、アンナが台所にはいっていって、第一に眼についたものは、前夜素足の足跡を消すために用いた小さな箒《ほうき》が、ザーミの手にもたれてることだった。彼女はその箒をクリストフの室から取ってきたのだった。そして今になって初めて、もちもどることを忘れてたのに突然気づいた。それを自分の室に打ち捨てておいたのだった。ベービの鋭い眼はすぐそれを見てとった。そして二人の陰謀仲間は、事のわけを組み立てずにはおかなかった。がアンナはつまずかなかった。ベービは女主人の視線を見守りながら、大袈裟《おおげさ》に微笑《ほほえ》んで、言い訳をした。
「その箒はこわれておりました。でザーミに渡して直してもらうことにいたしました。」
アンナはその太々しい嘘《うそ》を取り上げようともしなかった。聞こえたふうさえしなかった。ベービの仕事振りをながめ、注意を与え、そして平然と出ていった。しかし扉を閉めると、すっかり自負心を失った。廊下の角に隠れて耳をそばだてざるを得なかった。――(そんな手段を用いるのがつくづく恥ずかしかった……。)――ごく短い忍び笑いの声、それから、何にも聞き分けられないほど低い耳語。しかしアンナは頭が乱れていたので、聞き分けられるような気がした。恐怖のあまりに、聞くのを恐れていた言葉が伝わってきた。来たるべき仮面仮装や馬鹿騒ぎのことを二人が話してるのだと、彼女は想像をめぐらした疑いの余地はなかった。二人は灰の話をもち出すつもりに違いなかった……。それは多分彼女の考え違いだったろう。しかし彼女は二週間以来不面目という固定観念につきまとわれて、病的な激昂《げっこう》に陥っていたので、単に不確実を可能だと考えるだけにとどまらなくて、不確実を確実だとまで見なしたのだった。
そのときから、彼女の決心は固められた。
その日の晩――(謝肉祭肉食日の前の水曜日だった)――ブラウンは町から二十キロ離れた所に、診察に呼ばれていった。翌朝でなければ帰って来られなかった。アンナは夕食に降りて行かずに、自分の室に残った。誓っていた暗黙の約束を実行するのに、その夜を選んだのだった。けれども、クリストフへは何にも言わないで、一人で実行しようと決心した。彼女は彼を軽視していた。こう考えていた。
「あの人は約束した。けれど、あの人は男で、利己主義で嘘《うそ》つきで、自分の芸術をもっているし、すぐに忘れてしまったろう。」
それにまたおそらく、温情なんかはなさそうに見える彼女の激烈な心の中にも、友にたいする憐れみの情を起こす余地があったであろう。ただ彼女はあまりに粗剛であまりに熱烈だったから、それをみずから認めていなかったのである。
ベービは、奥様からよろしく言ってくれと頼まれたことだの、奥様が少し加減が悪くて休息したがってることだのを、クリストフに言った。それでクリストフは、ベービの監視のもとに一人で夕食をした。ベービはその饒舌《じょうぜつ》で彼をうんざりさした。彼に口をきかせようとしていた。他人の誠意を信じやすいクリストフでさえ、ある疑念を起こしたほどの過度の熱心さで、アンナに味方して滔々《とうとう》と述べたてた。クリストフもちょうどその晩を利用して、アンナと決定的な話をつけるつもりだった。彼もこのうえ延ばすことはできなかった。あの悲しい日の夜明けにいっしょにした約束を、忘れてはいなかった。アンナから求められたそれを果たすつもりでいた。しかしそういう二重の死のばかばかしさを見てとっていた。それは何事をも解決しはしないし、その悲しみと不名誉とはブラウンの上に及んでくるに違いなかった。もっともよい方法は、二人がたがいに別れることであり、自分がも一度立ち去ってみる――少なくとも彼女と離れているだけの力があるならば、立ち去ってみることである、と彼は考えた。無益な試みをやってみたあとのこととて、それができるかは疑わしかった。しかし、もしも堪え得ない場合には、だれにも知れないようにして、一人で最後の手段に訴えるだけの隙《ひま》は常にある、と彼は考えた。
彼は夕食のあとに、ちょっと逃げ出して、アンナの室へ上がって行きたかった。しかしベービは彼のそばを離れなかった。平素彼女は早めに仕事を終えるのだったが、その晩はいつまでも台所の後片付けを終えなかった。そしてクリストフがもう彼女からのがれたと思ってると、彼女はアンナの室に通じる廊下に、戸棚《とだな》をすえつけることを考え出した。クリストフは彼女がどっしりと腰掛に落ち着いてるのを見た。一晩じゅう動きそうもないのを悟った。彼女を積み重ねられた皿《さら》といっしょに投げ出したい気が、むらむらと起こってきて仕方なかった。しかし彼は我慢をした。奥様の様子はどうであるか、挨拶《あいさつ》をしに行くことはできまいか、それを見に行ってくれと願った。ベービはやって行き、もどってきて、意地悪い喜ばしさで彼を見守りながら、奥様の気分はよいほうであるが、眠りたいからだれも来てくれるなとのことだった、と言った。クリストフはむっといらだって、読書をしてみたが、それもできないで、自分の室に上がっていった。ベービは燈火が消えるまで窺《うかが》っていて、寝ずの番をしてやろうと誓いながら自分も室に上がっていった。家じゅうの物音が聞こえるように、扉《とびら》を半ば開いておくだけの注意までした。しかし悲しいかな彼女は、寝床にはいるとすぐに眠った。しかもその眠りは、夜が明けない限りは、雷が鳴ろうとまたいかに好奇心が強かろうと、なかなか覚《さ》めそうもないほど深いものだった。その眠りはだれにも知れずにはいなかった。鼾《いびき》の音が階下までも響いていた。
クリストフはその耳|馴《な》れた音を聞くと、アンナのところへやって行った。彼女に話をしなければならなかった。彼は一種の不安に駆られていた。扉のところまでいってその把手《とって》を回した。扉は締めきってあった。彼は静かにたたいた。返辞がなかった。彼は錠前に口を押し当てて、低い声で頼み、つぎにはしつこく頼んだ。なんの動きもなければ、なんの音もしなかった。アンナは眠ってるのだといくら考えても、ある心痛にとらえられた、そして中の様子を聞き取ろうといたずらにつとめながら、扉《とびら》に頬《ほお》をつけていると、敷居のところから漏れてくるらしいある臭気に打たれた。彼は身をかがめてそれを嗅《か》ぎ分けた。ガスの臭《にお》いだった。彼の血はぞっと凍った。
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