−6]《こめかみ》の骨には、蒼白《そうはく》な皮膚が張りつめていた。あたかも死人のようだった。
 クリストフは、乱れた寝床を直し、ピストルを拾い上げ、もぎ取った錠前を取り付け、室の中をすっかり片付けて、そこを去った。なぜなら、もう七時になっていて、ベービがやって来るころだった。

 ブラウンはその朝もどってきて、同じ虚脱の状態にあるアンナを見出した。ただならぬことが起こったのをよく見てとった。しかしベービからもクリストフからも何一つ聞き出し得なかった。アンナは終日身動きもしなかった。眼も開かなかった。脈搏《みゃくはく》はほとんど感じられないくらいに弱かった。時とするとまったく止まってしまって、ブラウンは一時、心臓の鼓動がやんだのではないかと思って心配した。彼は情愛のために自分の学問をも疑いだした。同業者のところに駆けていって連れて来た。二人はアンナを診察したが、ある熱病の始まりであるかあるいはヒステリー的神経症であるかを、決定することができなかった。病人の容態を観察しつづけなければならなかった。ブラウンはアンナの枕頭を離れなかった。食事もしなかった。夕方になると、アンナの脈は熱の徴候を示しはしなかったが、極度の衰弱を示してきた。ブラウンは牛乳を数|匙《さじ》彼女の口に入れてみた。彼女はそれをすぐに吐いてしまった。彼女の身体はこわれた人形のように夫の腕の中にぐったりしていた。ブラウンは彼女の様子に耳を傾けるためたえず立ち上がりながら、夜通しそばにすわっていた。ベービはアンナの病気にはほとんど心配しなかったが、義務観念の強い女だったから、寝るのを拒んでブラウンとともに起きていた。
 金曜日にアンナは眼を開いた。ブラウンは話しかけた。彼女は彼がいることに気を止めなかった。じっと動かないで、壁の一点を見つめていた。午《ひる》ごろブラウンは、彼女の痩《や》せた頬《ほお》に太い涙が流れるのを認めた。彼はそれを静かに拭《ふ》いてやった。涙は一滴ずつ流れつづけた。ブラウンはふたたび彼女に何か食物を取らせようとした。彼女はただぼんやりとそれに従った。晩になって、彼女は口をききだした。連絡のない言葉ばかりだった。ライン河のことが出た。彼女は河に溺死《できし》したがっていたが、十分の水がなかった。執拗《しつよう》に自殺の企てばかりを夢みつづけて、奇怪な死に方をいろいろ想像した。でもやはり死ぬことができなかった。時とするとだれかと議論をした。そんなとき顔は憤怒《ふんぬ》と恐怖との表情を帯びた。彼女は神に話しかけて、罪は神にあるのだと強情に主張した。あるいは情欲の炎が眼に燃えてきた。そして自分でも知らないような淫猥《いんわい》な言葉を発した。ふと彼女はベービを認めて、翌日の洗濯《せんたく》についてはっきり用を言いつけた。夜中に彼女はうとうとと眠った。そして突然身を起こした。ブラウンは駆け寄った。彼女は気忙《きぜわ》しない片言をつぶやきながら、彼を不思議そうにながめた。彼は尋ねた。
「アンナ、なんだい?」
 彼女は荒々しい声で言った。
「あの人を連れてきてください。」
「だれを?」と彼は尋ねた。
 彼女はなお同じ表情で彼をながめたが、突然笑い出した。それから額に両手をあてて唸《うな》った。
「ああ、神様、忘れさして!……」
 彼女はまた眠った。夜が明けるまで静かにしていた。明け方に少し身体を動かした。ブラウンはその頭をもち上げて、飲み物を与えた。彼女は幾口かをすなおに飲み下した。そしてブラウンの手のほうへかがみ込んで、それを抱擁した。それからふたたびうとうととした。
 土曜日の朝、彼女は九時ごろに眼を覚《さ》ました。一言もいわずに両足を寝床から出して、下に降りようとした。ブラウンは走り寄って、彼女を寝かそうとした。彼女は強情を張った。どうしたいのかと彼は尋ねた。彼女は答えた。
「礼拝に行くのです。」
 彼はいろいろ言いきかせ、今日は日曜日ではないから寺院は閉まってると言った。彼女は口をつぐんだ。しかし寝台のそばの椅子《いす》にすわって、うち震える指で着物をひっかけた。ブラウンの友人である医者がはいって来た。彼もブラウンに口を添えて説き聞かせた。それから彼女が譲歩しないのを見て、彼女を診察し、ついに承諾した。彼はブラウンをわきに呼んで、細君の病気はまったく精神的のものらしいから、当分その意に逆らってはいけないし、ブラウンがついて行きさえすれば、外出しても危険はないと思う、と言った。それでブラウンは自分もいっしょに行こうと彼女に言った。彼女はそれを拒んで一人で行きたがった。しかし室の中を歩き出すや否やつまずいた。すると一言もいわずにブラウンの腕を取って、二人で出かけた。彼女はたいへん弱っていて、途中でよく立ち止まった。帰りたいのかと彼は何度も尋ねた。すると彼女はまた歩き出すのだった。教会堂へ着くと、彼が言ったとおりに扉《とびら》は閉《し》まっていた。彼女は入り口のそばの腰掛にすわって、十二時が打つまで震えながらとどまっていた。それから彼女はまたブラウンの腕を取って、二人で黙々として帰ってきた。しかし夕方になると、彼女はまた教会堂へ行きたがった。ブラウンがいくら懇願しても駄目だった。また出かけなければならなかった。
 その二日間を、クリストフは一人きりで過ごした。ブラウンはあまりに心配していたから、彼のことを頭に浮かべなかった。ただ一度、土曜日の朝、アンナの外出したいという一図な考えを紛らせようとして、クリストフに会ってみないかと尋ねたことがあった。すると彼女は激しい恐慌《きょうこう》と嫌悪《けんお》との表情をしたので、彼はびっくりしてしまった。それからはもうクリストフの名前は口に出されなかった。
 クリストフは自分の室に閉じこもっていた。不安、愛着、悔恨、すべて渾沌《こんとん》たる悩みが、心のうちでぶつかり合った。彼は万事について自分をとがめた。自己嫌悪の情に圧倒された。幾度も彼は立ち上がって、ブラウンへいっさいを告白しに行こうとした――がすぐに、自分をとがめることでさらにも一人の男を不幸にするという考えから引き止められた。と同時にまた情熱からも脱せられなかった。彼はアンナの室の前の廊下をうろついた。そして扉《とびら》に近づく足音が室の中に聞こえるや否や、自分の室に逃げていった。
 ブラウンとアンナとが午後に外出したとき、彼は自分の室の窓掛の後ろに隠れて、二人を窺《うかが》った。彼はアンナを見た。いつもあんなに身体をつんとして高振っていたアンナが、背をかがめうなだれて黄色い顔色になっていた。すっかり年をとって、夫にきせてもらった外套と肩掛との重みに堪えかねていた。醜くなっていた。しかしクリストフは彼女の醜さを見ないで、その惨《みじ》めさばかりを見てとった。そして彼の心は憐憫《れんびん》と愛情とで満ちあふれた。彼女のところへ駆けてゆき、泥《どろ》の中にひれ伏し、彼女の足に、情熱のため害されたその身体に、唇《くちびる》を押しあて、彼女の許しを乞《こ》いたかった。そして彼は彼女をながめながら考えた。
「俺《おれ》の仕業は……あのとおりだ!」
 しかし彼の眼は、鏡の中で自分自身の面影に出会った。そして自分の顔立ちの上に、同じ荒廃を認めた。彼女のうちにと同じく、自分のうちにも、死の影が印せられてるのを認めた。そして考えた。
「俺の仕業なのか? いやそうじゃない。人を狂わせ人を滅ぼすところの、残忍なる主宰者の仕業だ。」
 家の中はがらんとしていた。ベービは外に出かけて、その日の出来事を近所の者たちに話していた。時は過ぎていった。五時が打った。やがてもどってくるアンナのことを考え、来かかってる夜のことを考えると、クリストフはある恐怖にとらえられた。今夜はもう同じ屋根の下にじっとしてる力がなさそうな気がした。自分の理性が情熱の重みの下にぐらつきだすのを感じた。何をしでかすか自分でもわからなかった。いかなる代価を払ってもアンナを得たいということ以外には、何を欲してるのか自分でもわからなかった。先刻窓の下を通っていったあの惨《みじ》めな顔のことを思った。そしてみずから言った。
「この俺《おれ》自身から彼女を救い出すべきだ!……」
 意志の力がさっと吹き起こった。彼は机の上に散らかってる幾|綴《つづり》かの紙を引っつかみ、それを紐《ひも》で結《ゆわ》え、帽子と外套とを取り、外に出かけた。廊下で、アンナの室の扉《とびら》に近づくと、恐れに駆られて足を早めた。階下に行って、寂しい庭に最後の一|瞥《べつ》を投げた。そして盗人のように逃げ出した。凍った霧が針のように肌《はだ》を刺した。彼は見知りの顔に出会いはすまいかと恐れて、人家の壁に沿って行った。停車場へついた。ルツェルン行きの汽車に乗った。第一の駅で、ブラウンへ手紙を書いた。急な用事で数日間町から出かけることになって、かかるおりに彼を打ち捨てて行くのが心悲しいと言い、一つの宿所を指定して、どうか様子を知らしてくれと願った。ルツェルンでゴタールド線の列車に乗った。夜中に、アルトルフとゲシェーネンとの間の小駅に降りた。その駅の名前を彼は知らなかった、永久に知らなかった。彼は駅の近くの見当たり次第の宿屋へはいった。水|溜《た》まりが道をさえぎっていた。雨がざあざあ降りしきっていた。夜通し降った。翌日も終日降った。滝のような音をたてて、雨水がこわれた樋《とい》から落ちていた。空も地も水に浸って、彼の考えと同じく融《と》け去るかのようだった。彼は汽車の煙の匂《にお》いのする湿った夜具にくるまって寝た。でもじっと寝ていることができなかった。アンナが陥ってるいろんな危険のほうへばかり考えが向いて、まだ自分の苦しみを感ずるだけの隙《ひま》がなかった。世間の悪意を転じさせてアンナより他のほうへ向けねばならなかった。熱に浮かされて彼は奇怪な考えを起こした。町で多少交際を結んでいたわずかな音楽家たちの一人、菓子屋を営んでるオルガニストのクレブスへ、手紙を書こうと思いついた。そして、心《ハート》の問題でイタリーへやって行くこと、ブラウンの家へ足を留めたときはすでにその情熱にかかっていたこと、それからのがれようと試みたこと、しかし自分の力は及ばなかったこと、などをクレブスへもらした。全体の文面は、クレブスが了解し得るほど十分明白であり、またクレブスが自分の考えでいろいろつけ加え得るほど十分ぼんやりしていた。クリストフは秘密を守ってくれと願った。そして彼はこの善良な男が病的な饒舌《じょうぜつ》家であることを知っていたし、手紙を受け取るや否や町じゅうに触れ歩くだろうとの期待を――しごくもっともな期待を――いだいていた。そしてなお世間の考えをそらさせるために、クリストフはその手紙を、ブラウンとアンナの病気とにたいするごく冷淡な数言で結んだ。
 彼はその残りの夜とつぎの一日とを、凝《こ》り固まった一念のうちに過ごした……アンナ……アンナ……。彼女と過ごしたこの数か月間の日々を、まのあたりに思い浮かべた。彼は彼女を情熱に燃えた幻で包んでいた。常に自分の願いどおりの面影に彼女を造り上げて、彼女をいっそう深く愛するのに必要な、精神上の偉大さや悲壮な真心などをもたせていた。そういう情熱の虚構は、それを批判する実際のアンナが眼前にいない今では、いっそうの確実性を帯びてきた。彼が眼に見てる彼女は、健全な自由な性格であって、周囲から圧迫され、鎖を脱しようともがき苦しみ、うち開けた広々した生活を翹望《ぎょうぼう》し、魂の満々たる大気を翹望し、しかもなおそれを恐れ、自分の本能が自分の運命と一致し得ずに、運命をなおいっそう悲しいものにするので、その本能と闘ってるのだった。そして彼に向かって、「助けてください!」と叫んでるのだった。その彼女の美しい身体を彼は抱きしめた。彼は思い出のために苦しめられた。思い出の傷をさらに深めては、痛々しい快楽を覚えた。その一日がしだいにたってゆくにつれて、失ったすべてのものにたいする感情がますます痛烈になってきて、彼はもう息をつくこともで
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