をした。クリストフは快活に彼らの手を握りしめた。
「さあ、そう陰気な顔をしたもうな。」と彼は彼らに叫んだ。「また会えるよ。大したことじゃない。僕たちは明日手紙をあげるよ。」
汽車は出発した。彼らは彼が遠ざかるのを見送った。
「気の毒だな!」とマヌースは言った。
彼らはまた自動車に乗った。黙っていた。しばらくしてからカネーはマヌースに言った。
「僕たちは罪なことをしたようだ。」
マヌースは初めなんとも答えなかったが、やがて言った。
「なあに、死んだ者は死んだ者だ。生きてる者を救わなければいけない。」
夜になるとともに、クリストフの興奮はまったく鎮《しず》まった。彼は車室の隅に縮こまって、酔いからさめた冷たい心地で考え込んだ。自分の手をながめると、自分のでない血が眼にとまった。彼は嫌悪《けんお》の身震いをした。殺害の光景が浮かんできた。人を殺したことを思い出した。なにゆえに殺したのかはもうわからなかった。彼は争闘のありさまを一々考えてみたが、こんどはまったく別な眼でその争闘を見てるのだった。どうして自分がその中にはいったかもうわからなかった。彼はオリヴィエといっしょに家を出かけたときからの一日のことを、また一々考えてみた。オリヴィエといっしょにパリーを歩いて、ついに渦巻《うずまき》の中に吸い込まれたところまでたどった。そこからぱったりわからなくなった。思考の連鎖が切れていた。あの連中と同一の信念を共有していなかったのに、どうしてあの連中とともに怒号し戦い意欲することができたのか? それは自分ではなかったのだ……。自分の本心と意志が欠けていたのだ……。そのことを考えると彼はびっくりし、また恥ずかしかった。それでは自分は自分の主《あるじ》ではなかったのか? そしてだれが自分の主であったのか?……彼は夜の中を急行列車で運ばれていた。そして、彼が陥った内心の夜も同じく真暗であり、彼を支配した不可知な力も同じく急激なものだった……。彼は自分の心乱れを振るい落とした。しかしそれは単に心痛を他に変えることだった。目的地に近づくに従って、ますますオリヴィエのことを考えてきた。そしてなんとなく不安を覚え始めた。
到着したとき彼は、駅のホームの上に見馴《みな》れたなつかしい友の顔がありはすまいかと、車窓からながめてみた……。だれもいなかった。列車から降りながら、やはりあたりをながめまわした。一、二度それらしいものを見た気がした……。否それは彼ではなかった。クリストフは約束の旅館へ行った。そこにもオリヴィエはいなかった。しかし実は驚くに当たらなかった。どうしてオリヴィエのほうが彼より先に来れるものか……。しかしそのときから、待つことの辛さが始まった。
朝になっていた。クリストフは自分の室に上がっていった。また降りてきた。昼食をした。町をぶらついた。彼は呑気《のんき》なふうを装っていた。湖水をながめたり、商店の陳列品をながめた。食堂の女中をからかった。絵入新聞をめくってみた……。が何にも面白くなかった。一日はゆるゆると重々しくたっていった。晩の七時ごろ、何もすることがないので、別に食べたくもない夕食を早めに取った。そして、待ってる友人が来たらすぐに案内してくれと頼んで、また自分の室に上がっていった。入り口を背にしてテーブルにすわった。何にも仕事がなかった、荷物もなければ書物もなかった。先刻買った新聞が一つあるきりだった。それを読もうとつとめた。しかし注意は他に向いていた。彼は廊下の足音に耳を澄ましていた。不眠のうちに過ごした一夜と待ちながら過ごした一日との疲れのために、官能はことごとく過敏になっていた。
突然、扉《とびら》を開ける音が聞こえた。なんとも言えぬある感情のために、彼は初め振り向かなかった。一つの手が肩にのせられるのを感じた。そこで振り向いてみると、オリヴィエが微笑《ほほえ》んで立っていた。彼は別に驚かなかった。そして言った。
「ああ、とうとう来たね!」
その幻影は消えた……。
クリストフはテーブルをつきのけ椅子《いす》をつき倒しながら猛然と立ち上がった。髪の毛は逆立っていた。彼は歯をかち合わせ蒼白《そうはく》になって一瞬間たたずんだ……。
そのときから――(何にも知るまいとし、俺《おれ》は何にも知らないのだと繰り返しても、駄目だった)――彼はすべてを知った。何がやって来るかを確かに知っていた。
彼は室にじっとしてることができなかった。町に出て一時間ばかり歩いた。帰ってくると、旅館の玄関で、門番が一通の手紙を渡した。あの[#「あの」に傍点]手紙だ。彼はそれが来てることを確かに知っていた。手紙を受け取りながら手が震えた。読むために室に上がっていった。手紙を開いた。オリヴィエが死んだことを読み取った。そして彼は気を失った。
手紙はマヌースからのだった。その文面によれば、彼らが前日、彼の出発を早めさせるためにその不幸を彼に隠したのは、オリヴィエの志望に従ったばかりだった。オリヴィエは望んでいた、彼が助かることを――彼が居残っていても、それはなんの役にもたたなくて、ただ彼も同じく身を滅ぼすことになるばかりだ――友の記憶のために、また他の友人らのために、また自身の光栄のために、彼は生き存《ながら》えなければならないのだ……その他種々。オーレリーも太い震えた筆跡で二、三行書き添えていた、憐《あわ》れな御方の世話をしてあげるつもりだと……。
クリストフは我に返ったとき、激しい憤りを覚えた。マヌースを殺したかった。彼は停車場へ駆け出した。旅館の玄関はがらんとしており、街路はひっそりしていた。帰り遅れたわずかな通行人らも、狂った眼つきをし息をはずましてる彼を、夜の暗みに見分けなかった。彼はあたかもブルドッグがその牙《きば》でかみつくように、自分の一念にしがみついていた。「マヌースを殺すんだ、殺すんだ!……」彼はパリーへもどろうとした。夜の特急列車はもう一時間も前に発車していた。翌朝まで待たなければならなかった。しかし彼は待っておれなかった。パリーのほうへ行く汽車に乗ってみた。その汽車はどの駅にも停車した。彼は車室の中にただ一人で叫んだ。
「ほんとうじゃない、ほんとうじゃない。」
フランスの国境から二番目の駅で汽車は突然停まった。それから先へは行かなかった。クリストフは憤怒《ふんぬ》に震え上がりながら、汽車から降り、他の汽車を求め、いろいろ尋ねたが、半ば眠ってる駅員らの冷淡にぶつかるばかりだった。どんなにしても着くのが遅れそうだった。オリヴィエのために間に合いそうにもなかった。マヌースに会うことさえできそうになかった。それ以前に捕縛されそうだった。どうすべきか? 何を望むべきか? なお進むべきか? 引き返すべきか? 何になろう、何になろう?……彼は通りかかりの憲兵に自首しようかと考えた。しかし生きたい人知れぬ本能に引き止められ、スイスに引き返せと勧められた。もう二、三時間もたたなければ、どちらの方面へも出る汽車はなかった。彼は待合所の中に腰をおろしたが、じっとしてることができず、停車場から外に出て、でたらめに夜道を歩き出した。寂然《じゃくねん》とした野の中に出た――森の前に控えてる樅《もみ》の木立にあちらこちら遮《さえぎ》られてる牧場だった。彼はその中に進んでいった。数歩行くか行かないうちに、地面に身を投げ出して叫んだ。
「オリヴィエ!」
彼は道のまん中に横たわってすすり泣いた。
長くたってから、遠い汽車の汽笛の音に彼は立ち上がった。停車場へもどろうとした。そして道に迷った。夜通し歩いた。どこへ行こうと構わなかった。何にも考えないために歩きつづけ、もう考えなくなるまで、死んで倒れるまで、歩きつづけたかった。ああ死ぬことができるなら!……
夜明けごろ彼は、国境から遠いフランスの村にはいった。夜通し国境から遠のいていたのである。彼は宿屋にはいり、むさぼるように食事をし、また出かけて、なお歩き出した。その日のうちに、ある牧場のまん中にぶっ倒れて、夕方まで眠った。眼を覚ますと、また新たな夜となりかけていた。彼の激怒は鎮《しず》まっていた。息もつけないような激しい苦悶《くもん》ばかりが残っていた。一軒の農家までたどりつき、一片のパンと藁《わら》の寝床とを求めた。農夫は彼の顔を窺《うかが》い、パンを一片切ってやり、牛小屋に連れてゆき、その中に閉じこめた。褪《あ》せた匂《にお》いのする牛のそばに敷き藁の中に寝ころんで、クリストフはパンをかじった。涙が顔に流れた。飢えと苦悶とは鎮まらなかった。がその夜もまた、数時間眠って苦しみを忘れた。翌日戸の開く音に眼覚めた。が身動きもしないで横たわっていた。もう生きたくなかった。農夫は彼の前にたたずんで、じっと彼をながめた。手に一枚の紙をもっていて、ときどきそのほうへ眼をやった。ついに一歩進み出て、クリストフの鼻先へ新聞を差し出した。第一ページにクリストフの肖像が出ていた。
「それは僕だ。」とクリストフは言った。「告発するがいい。」
「立ちなさい。」と農夫は言った。
クリストフは立ち上がった。農夫はついて来いという身振りをした。二人は納屋の後ろを通り、果樹の木立の中の曲がりくねった小径《こみち》をたどった。十字路まで来ると、農夫は一筋の道をクリストフに指《さ》し示して言った。
「あちらが国境です。」
クリストフは機械的に道をたどった。なんのために歩いてるか自分でもわからなかった。心身ともに疲れはてぐたぐたになっていて、一歩一歩立ち止まりたかった。しかし一度立ち止まったら、もうふたたび歩き出すことができず、倒れた場所から身動きもできないだろう、というような気がした。彼はなお一日歩き通した。もうパンを買うにも一スーの金もなかった。そのうえ彼は村を通るのを避けた。理性を離れた妙な感情から、死にたがりながらも捕縛を恐れていた。彼の身体は狩り立てられて逃げてる動物のようだった。肉体上の悲惨なことども、疲労、飢餓、疲弊した一身から起こってくる人知れぬ恐怖などは、一時精神上の困苦を打ち消していた。その精神上の困苦とともに閉じこもってそれをかめしめることのできる隠れ場を見出すこと、そればかりを彼は求めていた。
彼は国境を越えた。遠くに町が見えた。細長い鐘楼の塔や工場の煙筒などがそびえていて、それらの煙筒から立つ長い煙は、雨の中を灰色の空中に、黒い川のようになって皆同じ方向へ単調に流れていた。彼はもう倒れそうになっていた。そのとき彼は、この町に一人の知人がいることを思い出した。同郷出身の医者で、エーリッヒ・ブラウンとかいう名前で、前年クリストフがある成功を博したとき、旧誼《きゅうぎ》を思い起こしてくれとて手紙をよこしたのだった。ブラウンがいかに凡庸な者であろうとも、また自分の生活にいかに無関係な者であろうとも、クリストフは傷ついた獣のような本能から一生懸命になって、自分にとってまったくの他人ではない者のもとへ行こうとした。
一面の煙と雨との下を彼は、その薄暗い赤い町へはいった。何にも眼に止めず、道を尋ね、迷ったり引き返したりして、やたらにうろつきながら、町の中を歩いていった。もう力も尽きはてていた。緊張した意志を最後にも一度引きしめて、段々になってる険しい小路を上らなければならなかった。薄暗い教会堂のまわりに人家が密集してる狭い丘の頂まで、その路は上っていた。赤い石でできてる段が六十ばかりあって、三つか六つずつ一団になっていた。その一|団《かたま》りの石段の間には、ごく狭い平地があって、人家の入り口になっていた。その平地ごとにクリストフは、よろめきながら息をついた。上のほうでは、塔の上に烏《からす》が飛び回っていた。
ついに彼は、ある戸口に捜してる名前を読み取った。彼は戸をたたいた。――小路はまっ暗だった。彼は疲れきって眼を閉じた。心のうちも闇夜《やみよ》だった……。幾世紀も過ぎた……。
狭い戸口が少し開いた。敷居の上に一人の女が現われた。その顔は闇に包まれていた。しかし長い廊下の向こう
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