の暴虐な人波、などを彼は見てとった。彼は叫び声をあげて、みずから駆けつけてきた。仲間の者らがそのあとにつづいて駆けてきた。飲食店の入り口にいた他の者らも駆けてきた。彼らの呼び声をきいて、飲食店の中にいた者らも駆けてきた。両者は犬のように取っ組み合った。女たちは人道の段の上に残って叫び出した。――かくて、貴族的な小中流人のオリヴィエは、だれよりも戦いをもっとも好んでいなかったにもかかわらず、戦いの火蓋《ひぶた》を切ったのだった……。
 クリストフは労働者らに巻き込まれて、その騒動の中に飛び込んだ。だれがひき起こした騒動かは知らなかった。オリヴィエが交じっていようとは夢にも思わなかった。オリヴィエはもうまったく安全な所へ遠く行ってることと思っていた。争闘の様子は少しも見てとれなかった。各自に自分を襲ってくる者を見定めるのに忙しかった。オリヴィエは沈んでゆく小舟のように、渦巻《うずまき》の中に没してしまっていた……。彼を目ざしたのではないある剣先が、彼の左の胸に達した。彼は倒れ、群集に踏みつけられた。クリストフは人込みの逆流のために戦場の先端まで押し出されていた。彼はなんらの憎悪をもいだいてはしなかった。ちょうど村の市場《いちば》にでもいるような気で、愉快に押されたり押したりしていた。事件の重大なことなんかはほとんど考えていなかったので、肩幅の広い一人の警官につかまれても、相手の胴体を捕えて、ふざけた調子で言いたかった。
「娘さん、一踊りしませんか。」
 しかし、警官がも一人彼の背中に飛びかかったとき、彼は猪《いのしし》のように武者震いして、二人の警官を拳固《げんこ》でなぐりつけた。捕縛されるのを肯《がえん》じなかったのである。後ろから彼をとらえていた警官は舗石の上にころがった。も一人は激怒して剣を抜いた。クリストフはその剣先を自分の胸元に認めた。彼はそれを巧みに避けて、相手の手首をねじ上げ、剣をもぎ取ろうとした。もう何にもわからなくなった。それまではただ遊戯のような気がしていたのに……。二人はその場で争いつづけ、たがいに息が顔にかかっていた。彼は考えめぐらす隙《ひま》がなかった。相手の眼の中に殺意を認めた。そして彼のうちにも殺意が眼覚《めざ》めた。自分が羊のように首を切り落とされそうなのを見てとった。彼はにわかにぐっと力を込めて、相手の胸へ手首と剣とを差し向けた。そして差し通した。相手を殺してることを感じた。殺してしまった。すると突然、彼の眼にはすべてが一変して映じた。彼は酔った。彼は怒号した。
 彼の叫び声は、想像も及ばないほどの効果を生じた。群集は血の匂《にお》いを嗅《か》いでしまった。たちまちのうちに群集は獰猛《どうもう》な暴徒と化した。四方から鉄砲が発射された。人家の窓には赤旗が現われた。パリーのもろもろの革命の古い伝統によって、防寨《ぼうさい》が一つ作られた。街路の舗石はめくられ、ガス燈はねじ曲げられ、樹木は倒され、一台の乗合馬車がくつがえされた。市街鉄道工事のために数か月来掘り開かれていた溝《みぞ》が利用された。樹木のまわりの鋳鉄|柵《さく》は寸断されて弾丸にされた。武器が人々のポケットや人家の奥から取り出された。一時間とたたないうちに暴動となった。どの町も包囲状態になった。そして防寨の上では、今までと見違えるようになったクリストフが、自作の革命歌を高唱し、多くの人々がそれを繰り返していた。

 オリヴィエはオーレリーの家に運ばれていた。彼は意識を失っていた。薄暗い奥の室の寝台に寝かされていた。その足もとに、佝僂《せむし》の少年が途方にくれて立っていた。ベルトは最初ひどく心を痛めた。グライヨーが負傷したのだと遠くから思った。そして、実はオリヴィエだったことを認めて、最初にこう叫んだ。
「まあよかった。レオポールだと思ってたのに……。」
 けれど今では、オリヴィエに同情して抱擁してやり、その頭を枕《まくら》の上にささえてやった。オーレリーはいつもの落ち着き払った様子で、着物をぬがして、応急の手当をしてやった。マヌース・ハイマンが、いつもいっしょのカネーとともに、おりよくそこに居合わしていた。彼らはクリストフと同様に好奇心から、示威運動を見物に来たのだった。そして騒動の現場に臨んで、オリヴィエが倒れるのを見たのだった。カネーは声を立てて泣いていた。と同時にまたこう考えていた。
「こんな危なっかしい所に俺《おれ》はいったい何をしに来たんだろう?」
 マヌースは負傷者を診察した。そしてすぐに、もう駄目《だめ》だと判断した。彼はオリヴィエに同情をもっていた。しかしどうにもできないことにぐずついてるような男ではなかった。彼はオリヴィエのことはもう見切りをつけて、クリストフのことを考えた。クリストフを病理学の一例としてながめながら感嘆していた。クリストフの革命観を知っていた。自分に関係もない主旨のために冒してる馬鹿げた危険から、クリストフを救い出してやりたかった。無謀な行ないの中で頭を割るの危険ばかりではなかった。もし捕縛されたらあらゆる返報を受けるに違いなかった。もう長い前から警告されていたし、警察から眼をつけられていた。自分の暴挙ばかりでなく他人の暴挙をも背負わせられそうだった。グザヴィエ・ベルナールが職務上と面白半分とで群集の間をうろついてたが、マヌースに出会って、通りすがりに呼び止めて言った。
「クラフト君は馬鹿だ。防寨の上で浮かれきっている最中だ。こんどはわれわれのほうでも不問に付しちゃおけない。なんとか、逃走するようにしてやりたまえ。」
 言うは易《やす》く行なうは難《かた》かった。オリヴィエが死にかかってることをもし知ったら、クリストフは怒りに狂い立って、人を殺し自分も殺されるだろう。マヌースはベルナールに言った。
「すぐに出発させなけりゃ駄目だ。僕が連れ出そう。」
「どういうふうにして?」
「カネーの自動車で。向こうの町角にあるから。」
「それはどうも……。」とカネーは息をつまらして言った。
「彼をラローシュに連れて行ってくれ。」とマヌースは言いつづけた。「ポンタルリエ行きの急行に間に合うだろう。そしてスイスに落としてやってくれ。」
「承知しやすまい。」
「承知するよ。ジャンナンはもう出発していて、向こうでいっしょになるだろうと、僕が言ってやろう。」
 カネーの異議を耳にも入れずに、マヌースは防寨の上へクリストフを捜しに行った。彼は大して勇気がなかった。小銃の音を聞くたびに背をかがめた。自分が殺されるかどうか知るために、歩いてる舗石の数を――(偶数か奇数か)――数えていた。しかしあとに引き返しはしないで、行く所までやって行った。彼が着いたとき、クリストフはくつがえされた乗合馬車の車輪の上に上って、ピストルを空中に発射して面白がっていた。防寨の周囲には、舗石から吐き出されたパリー下層民らが、豪雨のあとの下水道の汚水のようにあふれていた。最初の戦士らはその中に没してしまっていた。マヌースはこちらに背を向けてるクリストフを呼んだ。クリストフにはそれが聞こえなかった。マヌースは彼のところまでよじ上っていって袖《そで》を引っ張った。クリストフはそれを振り払って危うく突き落とそうとした。マヌースは頑固《がんこ》にまた伸び上がって、そして叫んだ。
「ジャンナンが……。」
 喧騒《けんそう》の中にその言葉の尻《しり》は消えてしまった。クリストフは突然口をつぐみ、ピストルを取り落とし、足場から飛んで降り、マヌースのそばへ引き寄せられた。
「逃げなけりゃいけない。」とマヌースは言った。
「オリヴィエはどこにいるんだ?」
「逃げなけりゃいけない。」とマヌースは繰り返した。
「なぜだ?」とクリストフは言った。
「一時間もすれば防寨は占領されるよ。晩には君は捕縛される。」
「そして僕が何をしたと言うのか?」
「手を見てみたまえ……。そら!……君の事件は明白だ。許されはしない。君は皆から知られてしまってる。一刻も猶予はできない。」
「オリヴィエはどこにいるんだ?」
「家に。」
「そこへ行こう。」
「行けるものか。警官が入り口で君を待ち受けてる。僕はオリヴィエの頼みで君に知らせに来たんだ。逃げたまえ。」
「どこへ行くんだ?」
「スイスへ。カネーが自動車で連れ出してくれる。」
「そしてオリヴィエは?」
「話してる隙《ひま》はないよ……。」
「僕はオリヴィエに会わないでは発《た》てない。」
「向こうで会えるよ。明日君といっしょになれる。彼は一番列車で発《た》つんだ。さあ早く! 今くわしく言ってきかしてやるよ。」
 彼はクリストフをとらえた。クリストフは騒ぎにぼんやりし、自分のうちに吹き起った狂風にぼんやりして、自分が何をなしたか、またどうされようとしてるのか、さっぱり訳がわからないで、引っ張られてゆくままになった。マヌースはクリストフの腕をとらえ、他方の手でカネーをとらえた。カネーは自分に課せられた役目を喜んではなかった。マヌースは二人を自動車に乗せた。人のいいカネーは、クリストフが捕縛されたらたいへん心配するに違いなかった。しかしクリストフを救う役目は自分以外のだれかに引き受けてもらいたかった。マヌースはカネーの人物をよく知っていた。そして彼の意気地なしにある疑いを起こしたので、二人と別れようとしかかったとき、自動車が音をたてて動きかけた間ぎわに、突然考えを変えて、二人のそばに自分も乗った。

 オリヴィエは意識を回復しなかった。その室の中にいるのはオーレリーと佝僂《せむし》の少年とだけだった。空気も光も不足してる侘《わ》びしい室! もうほとんど真暗《まっくら》だった……。オリヴィエはちょっと深淵《しんえん》から浮かび上がった。エマニュエルの唇《くちびる》と涙とを手の上に感じた。弱々しく微笑《ほほえ》んで、少年の頭に自分の手をやっとのことでのせた。その手がどんなにか重かった!……彼はふたたび闇《やみ》に沈み込んだ……。

 瀕死《ひんし》の彼の頭のそばには、枕の上に、五月一日の小さな花束、数茎の鈴蘭《すずらん》を、オーレリーは置いていた。締まりの悪い水口から、中庭の桶《おけ》に水がぽたぽた垂《た》れていた。彼の頭の奥で、あたかも消えかかってる燈火のように、いろんな面影が一瞬間ひらめいた……。一軒の田舎家、壁には藤蔓《ふじづる》がからまり、庭には子供が一人遊んでいた。その子供は芝生《しばふ》の上に寝ころんでいた。噴水が石の水盤の中に飛び散っていた。一人の小さな娘が笑っていた……。
[#改ページ]

     二


 彼らはパリーから出た。霧に埋もれてる広い平野を横ぎっていった。十年前にクリストフがパリーへ到着したときと同じような晩だった。あのときすでにクリストフは今と同様に逃亡者だった。しかしあのときは、友が、自分を愛してくれる者が、生きていた。そして彼はみずから知らずに、その友のほうへ逃げて来たのだった……。
 初め一時間ばかりの間は、クリストフはまだ争闘の興奮の中にあった。強い調子でたくさん口をきいた。自分の見たことやしたことをごっちゃに語った。自分の勇気を誇っていた。マヌースとカネーもまた、彼の気を紛らすためにしゃべった。がしだいに熱がさめて彼は黙り込んだ。二人の同伴者だけがなおしゃべりつづけた。彼はその午後の暴挙を少しびっくりしていたが、少しも気を落としてはいなかった。彼はドイツから逃げ出したときのことを思い出した。あのときも逃亡者であり、いつも逃亡者だ……。彼は笑い出した。それが彼の運命だったに違いない。パリーを去ることは彼には苦痛でなかった。土地は広い。至る所人間は同じだ。友といっしょでさえあるならば、どこへ行こうとほとんど構わなかった。彼は翌朝友と落ち合うつもりでいた……。
 一同はラローシュに着いた。マヌースとカネーは、彼が汽車に乗って出発するのを見るまではそばを離れなかった。クリストフは、自分の降りるべき場所と、旅館の名前と、便りを受け取るべき郵便局とを、繰り返し尋ねた。彼らはさすがに別れぎわになると、悲しげな顔
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