かった。雑踏や喧騒《けんそう》やあらゆる荒々しいことを恐れていた。身を守ることもできず――守りたくもなくて、そういうものの犠牲となるようにできていることを、自分でよく知っていた。なぜなら、自分で苦しむのが嫌《いや》であると同様に、人を苦しめるのも嫌だったから、病弱な身体は肉体的苦痛に接すると、他の者よりも多く嫌悪《けんお》を感ずるものである。というのは、肉体的苦痛をよりよく知ってるからであり、またその想像力によって、苦痛をより直接痛切なものと観ずるからである。オリヴィエは自分の意志の堅忍と矛盾するそういう身体の怯懦《きょうだ》を、みずから恥ずかしい気がして、それと戦おうとつとめていた。しかしその朝、あらゆる人との接触がことに心苦しく思われて、一日家に引きこもっていたかった。クリストフは叱《しか》ったりあざけったりして、どうしても彼を連れ出して気を引き立たしてやりたかった。彼はもう十日間も戸外の空気に当たったことがなかったのである。が彼は聞こえないふうをした。クリストフは言った。
「じゃあいいよ、僕一人で行くから。僕はあの連中の五月一日を見て来よう。もし僕が今晩帰って来なかったら、検束されたものだと思ってくれたまえ。」
彼は出かけた。階段のところでオリヴィエが追っついてきた。オリヴィエは彼を一人で行かせたくなかった。
街路にはあまり人が出ていなかった。一茎の鈴蘭《すずらん》をつけた小女工らが少しいた。日曜服をつけた労働者らが退屈な様子で歩き回っていた。町|角《かど》には、市街鉄道の昇降場の近くに、警官が一団となって姿を潜ましていた。リュクサンブールの鉄門は閉《し》まっていた。天気はやはり霧がかけてなま暖かかった。もう長らく日の光が見えなかったのである……。彼らは二人腕を組み合わせて歩いた。あまり口はきかなかったが、深く愛し合っていた。わずかの言葉で過去の親しいことどもが心に浮かんだ。ある区役所の前で立ち止まって晴雨計を見ると、上昇するらしい模様だった。
「明日は、」とオリヴィエは言った、「日の光が見られるだろう。」
セシルの家のすぐ近くに来ていた。子供を抱擁しに立ち寄ろうかと二人は考えた。
「いや、帰りにしよう。」
河の向こう側に行くと、今までより多くの人に出会い始めた。日曜服をつけ日曜らしい顔つきをした平和な散歩者、子供なんかを引き連れた野次馬、ぶらついてる労働者、などがいた。二、三の者はボタンの穴に赤い野|薔薇《ばら》の花をつけていた。彼らは温和な様子だった。革命家を気取ってる人々だった。幸福のわずかな機会にも満足する温良な楽天的な心が、彼らのうちに感ぜられた。この休みの日に天気がいいかあるいは相当な天候でさえあれば、それを感謝していた……だれに感謝すべきかはよくわからなかった……がとにかく周囲のすべてに感謝していた。別に急ぎもせずに揚々と歩きながら、樹木の新芽をながめたり、通り過ぎる小娘の衣裳をながめたりしていた。そして慢《ほこ》らかに言っていた。
「これほどりっぱな着物をつけてる子供はパリー以外では見られない。」
クリストフは予告されてるすばらしい運動を茶化していた……。人のよい連中かな!……彼は彼らにたいして愛情をいだいていたが、一片|軽蔑《けいべつ》の念もないではなかった。
二人が先へ行くに従って、群集は立て込んできた。蒼《あお》ざめた怪しげな顔つきの者や放逸な口つきの者が、咥《くら》うべき餌食《えじき》と時とを待ち受けながら、人|雪崩《なだれ》の中に潜んでいた。泥《どろ》が掘り返されていた。一歩ごとに群集の流れは濁っていった。今はもうどんよりと流れていた。油ぎった水面に河底から立ちのぼる気泡《きほう》のように、呼び合う声、口笛の音、無頼漢の叫び声などが、その群集のどよめきを貫いて響き渡り、群集の幾層もの厚みを示していた。街路の先端、オーレリーの飲食店の近くには、堰《せき》のような音が起こっていた。警官や兵士の柵《さく》にぶつかって群集が押し返されていた。その障害物の前で、群集は一団に密集して、あちらこちらに逆まきながら、口笛を吹き唸《うな》り歌い笑っていた……。民衆の笑いこそは、言葉による出口を見出し得ないでいる陰暗な深い無数の感情を表現する、唯一の手段なのである……。
この群集は敵意をいだいてはしなかった。自分が何を欲してるのか知らなかった。それを知るまでは、いらいらした乱暴なしかもまだ悪意のないやり方で興がっていた――押したり押されたり、警官を侮辱したり、ののしりあったりして、興がっていた。しかし徐々に激昂《げっこう》していった。あとからやって来る人々は、何にも見えないのをじれて、人垣《ひとがき》に隠されて危険の度が少ないだけに、なおいっそう挑戦的だった。前のほうにいる人々は、押す者とそれに逆らう者との間に圧迫され、その地位が我慢できないだけに、なおいっそう躍気となっていた。彼らを押しつけてる群集の流れの力のために、彼らの力は平素の百倍もになっていた。そして皆、家畜のようにたがいに密接し合うに従って、群集の温かみが胸や腰に伝わってくるのを感じた。そして自分たちがただ一塊となってるような気がしていた。各人がすべての人々であり、巨人ブリアレウスであった。血潮の波がときどき、無数の頭をもったこの怪物の心に逆まいてきた。眼つきには憎悪の色が浮かび、叫び声は兇暴になってきた。三、四列目あたりに潜んでいた人々は、石を投げ始めた。人家の窓からは、家族の人々がながめていた。彼らは芝居でも見るような気になっていた。群集を煽動《せんどう》していた。心痛な焦慮に少しおののきながら、兵士らが襲いかかるのを待っていた。
そういう密集せる人込みの中を、クリストフは膝《ひざ》や肱《ひじ》で突きのけながら、楔《くさび》のように道を開いて進んだ。オリヴィエはそのあとからついて行った。一|塊《かたま》りになってる群集は、ちょっと隙間《すきま》を開いて二人を通し、そのあとからまたすぐ隙間をふさいだ。クリストフは愉快がっていた。先ほど民衆運動の可能を否定したことなんかは、すっかり忘れはてていた。人流れの中に足を踏み入れるや否や、それに吸い込まれてしまっていた。このフランスの群集とその権利請求とには門外漢でありながら、にわかにそれに融《と》け込んでしまったのだった。群集が何を欲してるかにはあまり気を留めないで、彼はただ欲し、自分がどこへ行ってるかにはあまり気を留めないで、彼はただやって行き、そしてその狂乱の息吹《いぶ》きを吸い込んでいた……。
オリヴィエは引きずられるようにしてついて行った。自国のその民衆の熱情にはクリストフよりもはるかに門外漢であり、しかもやはり漂流者のようにその熱情に流されながら、彼は別に喜びも感ぜず、冷静な心地で、少しも自己意識を失わなかった。彼は病気のために衰弱して、人生との絆《きずな》がゆるんでいた。彼はそれらの人々といかに縁遠い気がしたことだろう!……彼は逆上《のぼ》せていなかったし、精神が自由だったので、ごく些細《ささい》なことまでも心に刻み込まれた。自分の前にいる一人の娘の金色の首筋を、その色|褪《あ》せた細い首を、楽しげにうちながめた。と同時にまた、押し合ってる群集の身体から湧《わ》き出る悪臭に、胸が悪くなった。
「クリストフ!」と彼は懇願した。
クリストフは耳に入れなかった。
「クリストフ!」
「え?」
「帰ろうよ。」
「恐いのか。」とクリストフは言った。
彼は進みつづけた。オリヴィエは悲しげな微笑を浮かべてついていった。
彼らから数列先の所、押し返された民衆が人垣を作ってる危険区域の中に、新聞|売捌所《うりさばきじょ》の屋根に上ってる佝僂《せむし》の少年の姿を、オリヴィエは認めた。少年は両手で屋根につかまり、危《あぶ》なげな様子でうずくまって、兵士らの壁の彼方《かなた》を笑いながら見渡し、そしてまた群集のほうへ、揚々たるふうで振り向いていた。彼はオリヴィエを見てとって、輝かしい眼つきを投げかけた。それからふたたび、彼方の広場のほうを窺《うかが》い始めた。何かを待ちながら希望に輝いた眼を見開いていた。……何を待っていたのか!――来るべきものをである……。ただに彼ばかりではなかった。彼の周囲の多くの者も、奇跡を待っていた。そしてオリヴィエはクリストフの顔を見ながら、クリストフもまた待ってるのを気づいた……。
オリヴィエは少年を呼びかけ、降りてこいと叫んだ。エマニュエルは聞こえないふうをした。もうオリヴィエのほうをも見なかった。彼はクリストフの姿に眼をとめたのだった。そして、半ばはオリヴィエに自分の勇気を示すために、半ばはオリヴィエがクリストフといっしょにいるのを罰するために、喧騒《けんそう》の中に身を曝《さら》して喜んでいた。
そのうちにクリストフとオリヴィエは、群集中に何人かの知人を見出した。――金色の髯《ひげ》を生やしたコカールがいた。彼はただ少しの小|競合《ぜりあ》いを期待してるばかりであって、将《まさ》に水が堤にあふれんとする瞬間を老練な眼で見守っていた。その先のほうには別嬪《べっぴん》のベルトがいた。彼女はあたりの人々からちやほやされながら半可通な言葉をかわしていた。彼女はうまく第一列にはいり込んで、声をからしながら警官らをののしっていた。コカールはクリストフに近寄ってきた。クリストフは彼を見てまた嘲弄《ちょうろう》しだした。
「僕が言ったとおりだ。何事も起こりゃしないよ。」
「なあに!」とコカールは言った。「あまりここにいないがいいよ。じきにたいへんなことになるからな。」
「法螺《ほら》を吹くなよ。」とクリストフは言った。
ちょうどそのとき、胸甲兵らは石をぶっつけられるのに我慢しきれないで、広場の入り口を閑くために進んできた。中央の隊伍《たいご》が駆け足で前進してきた。すぐに人々は散乱し始めた。福音書の言葉に従えば最初のものが最後の者だった。しかし彼らは長くそうしてはいまいとつとめた。憤激してる逃走者らは、自分らの潰走《かいそう》をつぐなうために、追っかけてくる者どもをののしり、一撃をも受けない先から「人殺し!」と叫んでいた。ベルトは鰻《うなぎ》のように列の間を縫い歩いて、鋭い叫び声をたてていた。ふたたび仲間の者といっしょになり、コカールの広い背中の後ろに隠れ、ほっと息をつき、クリストフのほうに身を寄せ、恐がってかあるいは他の理由からか、彼の腕をぎゅっとつかみ、オリヴィエにちらりと横目を使い、それからまた金切り声でののしりながら、敵のほうに拳《こぶし》を差し出した。コカールはクリストフの腕をとらえて言った。
「オーレリーのところへ行こう。」
数歩行けばよかった。ベルトはグライヨーといっしょに先にはいっていった。クリストフはオリヴィエを従えてはいりかけた。街路は両方へ斜面をなしていた。牛乳店の前の人道からは、五、六段下に中央路が見おろされた。オリヴィエは人波から出て息をついた。飲食店の不潔な空気やそれら狂人どもの高話などの中にはいることは、思っただけでも嫌《いや》だった。彼はクリストフに言った。
「僕は家に帰るよ。」
「帰りたまえ。」とクリストフは言った。「一時間ばかりのうちには僕も君のところへ行くよ。」
「もう危ない真似《まね》はよせよ、クリストフ。」
「弱虫めが!」とクリストは笑いながら言った。
彼は牛乳店へはいった。
オリヴィエは店の角《かど》を曲がっていった。数歩行ってから、混雑を離れた横町へはいった。愛護してる少年の面影が頭を掠《かす》めた。彼は振り返ってその姿を捜した。ちょうど彼がエマニュエルを見つけ出した間ぎわに、エマニュエルはその見張り場所から落ち、群集につき飛ばされて地面にころがった。逃走者らはその上を踏み越えていった。警官らがやって来た。オリヴィエは何にも考えなかった。いきなり人道の段から飛び降りて助けに駆け寄った。一人の土工がその危険を認めた。引き抜かれた剣、子供を起こそうと手を差し出してるオリヴィエ、その二人を引っくり返した警官ら
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