に見える、夕の明るみを受けた小さな庭の明るい背景の上に、その姿が浮き出していた。彼女は背が高く、まっすぐにつっ立って、彼が口を開くのを待ちながら黙っていた。彼には彼女の眼は見えなかったが、その視線を身に感じた。彼は医師エーリッヒ・ブラウンを尋ね、自分の名前を告げた。それだけの言葉を喉《のど》から発するのもようやくだった。疲れと渇《かわ》きと飢えとにがっかりしていた。女は一言も発しないで奥へはいった。クリストフはそのあとについて、雨戸のしまった室へ通った。暗闇の中で彼女にぶつかった。膝《ひざ》と腹とで黙々たる彼女の身体に擦《す》れ合った。彼女は室から出て、燈火もつけずに彼を置きざりにして扉《とびら》を閉《し》めた。彼は何かを引っくり返しはすまいかと恐れて、なめらかな壁に額を押し当ててもたれながらじっとしていた。耳鳴りがしていた。眼の中には暗闇が躍《おど》り立っていた。
 上の階で、椅子《いす》が動かされ、驚きの声が起こり、激しく扉の音がした。重い足音が階段を降りてきた。
「どこにいるんだ?」と覚えのある声が尋ねていた。
 室の扉《とびら》はまた開いた。
「どうしたんだ、暗がりに置きざりにするなんて! アンナ! おい、燈火《あかり》を?」
 クリストフは弱りはてていて、もう駄目《だめ》になったような気がしていたので、その騒々しくはあるが親しげな声の響きを聞くと、困憊《こんぱい》のうちに安易を覚えた。彼は差し出された両手をとらえた。燈火が来た。二人はたがいに見合わした。ブラウンは背が低かった。黒い荒い無格好な髯《ひげ》が生えてる赤ら顔、眼鏡の奥で笑ってる善良な眼、皺《しわ》の寄ったざらざらした凸凹《でこぼこ》の無表情な広い額、丁寧《ていねい》に頭に撫《な》でつけられてる髪は、低く首筋までもつづいてる筋で二つに分けられていた。まったくの醜男《ぶおとこ》だった。しかしクリストフは、彼をながめ彼の手を握りしめると、ある安らかな気持を覚えた。ブラウンは驚きの情を隠さなかった。
「なんという変わり方だろう! なんという様子だろう!」
「僕はパリーから来た。」とクリストフは言った。「逃げて来たのだ。」
「知ってるよ、知ってるよ。新聞でみると、君は捕《つかま》ったと書いてあった。まあよかった。僕たちは、アンナと僕とは、君のことをたいへん考えていたよ。」
 彼は言葉を切らして、クリストフを家の中に迎え入れた無言の女を紹介した。
「僕の妻だよ。」
 彼女は手にランプをもって室の入り口に立っていた。丈夫な頤《あご》をした無言の顔だった。燈火を受けたその髪は褐《かっ》色の反映を見せ、同じくその頬《ほお》は艶《つや》のない色をしていた。彼女は肱《ひじ》を身体にくっつけて硬《こわ》ばった身振りで、クリストフへ手を差し出した。クリストフはその顔を見ないで手を取った。
 彼は気が遠くなりかけていた。
「僕は実は……」と彼は説明しようとした、「君の好意で……もしお邪魔でなかったら……一日置いてもらいに……。」
 ブラウンは彼をしまいまで言わせなかった。
「一日だって!……二十日でも、五十日でも、いいだけいてくれたまえ。君がこちらにいる間は、僕たちの所に泊まるんだ。長くいてくれるといい。それが僕たちにとっては光栄で幸福なんだ。」
 そのやさしい言葉にクリストフは感動しきった。彼はブラウンの腕に身を投げ出した。
「クリストフ君、クリストフ君……」とブラウンは言った、「泣いてるね……え、どうしたんだろう?……アンナ、アンナ!……早く……気絶したよ……。」
 クリストフは主人の腕の中で気を失っていた。数時間前から感じていた人事不省の状態に圧倒されてしまったのだった。
 彼がふたたび眼を開いたときには、大きな寝台に寝かされていた。湿った土の匂《にお》いが開け放した窓から漂っていた。ブラウンは彼の上にかがみ込んでいた。
「許してくれ。」とクリストフはつぶやきながら立ち上がろうとした。
「腹が空《す》ききってるんだ。」とブラウンは叫んだ。
 夫人は出て行き、一杯の飲み物をもってもどってきて、それを彼に飲ました。ブラウンが彼の頭をささえてやった。クリストフは正気づいた。しかし疲労のほうが飢えよりもはなはだしかった。頭をまた枕《まくら》につけるや否や眠った。ブラウン夫妻は彼を見守った。それから、彼にはただ休息だけが必要なのを見てとって、彼を一人残して出て行った。

 幾年もつづくかと思われるような眠り、湖水の底に落ち込んだ鉛のように、みずからも圧倒され他をも圧倒する眠りだった。積もり積もった疲労にとらえられ、意志の門口で永久にうろついてる奇怪な妄想《もうそう》にとらえられるのである。クリストフはその未知の闇夜の中に埋もれ、焦慮し疲憊《ひはい》しながら眼を覚まそうと欲した。いつも半時間ばかり打ってる掛時計の音が聞こえた。息をすることも考えることも身動きもできなかった。手足を縛られ猿轡《さるぐつわ》をはめられて溺《おぼ》らせられてるかのようで、身をもがいてはまた底のほうへ沈んでいった。――ついに夜明けとなった。雨の日の遅々とした灰色の曙《あけぼの》だった。彼を焼きつくしていた堪えがたい熱はさめた。しかし身体は山の下敷きになってるかのようだった。彼は眼を覚ました。恐ろしい眼覚めだった。
「なにゆえに眼を開くのか? なにゆえに眼を覚ますのか? 地下に横たわってる憐《あわ》れな友のように、このままじっとしていたい……。」
 彼はその寝ぐあいが苦しかったにもかかわらず、仰向けに寝たまま身動きもしなかった。腕と足とは石のように重かった。墓の中にいる心地だった。仄《ほの》白い光がさしていた。数滴の雨が窓ガラスを打っていた。庭には一羽の小鳥が悲しげな小さな声をたてていた。おう、生きることの惨《みじ》めさよ! 残忍なる無益さよ!……
 時間が過ぎていった。ブラウンがはいってきた。クリストフは見向きもしなかった。ブラウンはクリストフが眼を開いてるのを見て、快活に呼びかけた。そしてクリストフがなお陰気な眼つきで天井を見つめてるので、その憂鬱《ゆううつ》を払いのけてやろうとした。寝台に腰をおろしてやかましくしゃべりだした。その騒々しさにクリストフは我慢できなかった。人力以上だと思われるほどの努力をして言った。
「どうか僕に構わないでくれたまえ。」
 善良な彼はすぐに調子を変えた。
「一人でいたいんだね。どうしてだい。いやそうだろう。静かにしてるがいいよ。休息したまえ。口をきかないでいたまえ。食事をもって来させよう。だれもなんとも言わないよ。」
 しかし彼は簡単に切り上げることができなかった。いつまでもくどくどと言い聞かしたあとで、大きな靴の爪先《つまさき》で床《ゆか》をきしらしながら出て行った。クリストフはまた一人きりになって、死のごとき疲労の中に沈み込んだ。考えは苦悩の霧の中にぼかされていた。彼は一生懸命に会得しようとつとめた……。「なにゆえに自分は彼を知ったのか? なにゆえに自分は彼を愛したのか? アントアネットが身を犠牲にしたのがなんの役に立ったか? あれらの生活、あれらの時代――かくも多くの困難と希望――彼の生に到達してそれとともに空虚に没してしまったもの、それらにいかなる意義があったのか?」……生の無意義さ。死の無意義さ。一人の者が消し去られ、一族の者全部が消滅して、そのあとにはなんらの痕跡《こんせき》も残らない。嫌悪《けんお》すべきか滑稽《こっけい》視すべきかもわからない。害悪な笑いが、憎悪と絶望との笑いが、クリストフを襲ってきた。かかる苦悶《くもん》の無力さとかかる無力さの苦悶とに、彼は打ち負けてしまった。彼の心は紛砕された……。
 医師ブラウンが往診に出かける足音のほか、家の中にはなんの音も聞こえなかった。クリストフは時間の観念を失ってしまった。そこへアンナが現われた。盆に食事をもってきていた。彼はただ彼女をながめたきりで、礼を言うための身振りもしなければ唇《くちびる》さえ動かさなかった。しかし何にも見てないような彼のすわった眼の中には、その若い女の面影が写真のようにはっきりと刻み込まれた。ずっとあとになって彼女をもっとよく知ったときも、やはり彼はそういうふうにして彼女を見たのだった。新しい種々の面影もその第一の記憶を消すにいたらなかったのである。彼女は重々しい束髪に結《ゆわ》えた濃い髪をもち、額は出ており、頬《ほお》は広く、鼻は短くまっすぐで、眼はしつっこく俯向《うつむ》きがちであって、もし他人の眼に出会うと、温情のないあまり打ち解けない表情でそらされ、唇はやや厚くてきっと結ばれており、その様子が意固地《いこじ》でほとんど頑固《がんこ》とも言えるほどだった。背が高く、頑健でいい姿らしかったが、きちっと着物の中に堅くなって、動作が硬《こわ》ばっていた。彼女は音もたてず口も利かずに歩いてき、寝台のそばのテーブルに盆を置き、腕を身体にくっつけ俯向きがちにして出て行った。彼女のそういう奇体なやや滑稽《こっけい》な出現を、クリストフは別に驚こうともしなかった。彼は食事には手もつけずに、なお無言のうちに苦しみつづけた。
 昼間は過ぎた。晩になった。ふたたびアンナが新しい料理を運んで来た。朝もって来た食事に手もつけてないのを見たが、なんとも言わずにそれを下げていった。病人に向かってすべて女が本能的に言いかけるやさしい言葉を、彼女は一つも発しなかった。彼女にとってはクリストフは存在していないかのようだった。あるいは、彼女自身もほとんど存在していないかのようだった。クリストフもこんどはじれてきて、彼女の無器用な取り澄ました動作を一々見守りながら、ひそかな敵意を覚えさせられた。それでも彼は、彼女が口をきこうとしないのがありがたかった。――彼女の出て行ったあとで医師がやって来ると、なおいっそうそれがありがたく思えた。医師はクリストフが初めの食事に手をつけなかったのに気づいたのだった。彼女が無理にも食べさせなかったことを怒って、こんどは自分でぜひとも食べさせようとした。クリストフは静穏を欲して、牛乳を少し飲みくだした。それから彼のほうへ背を向けた。
 二日目の夜は最初の夜より穏やかだった。重い眠りがクリストフを虚無のうちに連れ去った。もう呪《のろ》わしい生の跡方もなかった。――しかし眼覚《めざ》めはいっそう息苦しいものだった。彼はあの因果な一日のことを、オリヴィエが外出を嫌《いや》がったことや帰ろうと切願したことなど、すべてのことを詳細に思い出した。そして絶望の念をもってみずから言った。
「彼を殺したのは自分だ……。」
 一人でじっと室に閉じこもっていると、獰猛《どうもう》な眼をしたスフィンクスの爪《つめ》に引っつかまれ、その死骸《しがい》の息吹《いぶ》きとともに、眼がくらむような問いを真正面に吹きかけられた。それを堪え得ないで、彼は熱に浮かされたように立ち上がった。室の外にたどり出で、階段を降りていった。他人にすがりつきたい本能的な臆病《おくびょう》な要求に駆られていた。しかも、もし見知らぬ声を聞いたらすぐに逃げ出したかもしれなかった。
 ブラウンは食堂にいた。例のとおり大袈裟《おおげさ》な友情を示しながらクリストフを迎えた。そしてすぐにパリーでの出来事を尋ね始めた。クリストフは彼の腕をとらえた。
「いや、」と彼は言った、「何にも尋ねないでくれたまえ。あとのことにして……。悪く思っちゃいけないよ。僕は今話せないんだ。たまらなく疲れてる、疲れきってるんだ……。」
「わかってるよ、わかってるよ。」とブラウンはやさしく言った、「神経が痛められてるんだ。 数日前からの感動のせいだ。話さないがいい。何にも遠慮しちゃいけない。勝手にしていたまえ。自分の家同様だ。少しも差し出がましいことはしないようにするよ。」
 彼はその言葉を守った。客を疲らすまいとして、平素とまったく反対の振る舞いをした。クリストフの前では妻ともろくに話をしなくなった。小声で口をきき爪立《つまだ》って歩いた。家じゅうがひっそりしてしまっ
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