されたクリストフの痛ましい顔、壁の上に落ちてる影、街路に響くある足音、手に握ってる鉄の感触……。難破者が遺流物に取りすがってそれといっしょに沈んでゆくように、彼女はそれらの感覚にすがりついていた。そのあとでは、すべてが恐ろしくなった。もっと待ってはなぜいけないか? しかし彼女はみずから繰り返した。
「ぜひとも……。」
汽車に乗り遅れはすまいかと気づかって急いでる旅人のようにあわただしく、やさしみのない別れを彼女はクリストフに告げた。そしてシャツを押し開き、心臓を探りあて、そこにピストルの銃先《つつさき》をあてた。クリストフはひざまずいて、夜具の中に顔を隠していた。引き金を引くときに、彼女は左手をクリストフの手にのせた。闇夜の中を歩くのを恐《こわ》がってる子供のような動作だった……。
そして、恐るべき数秒が過ぎた……。アンナは発射しなかった。クリストフは顔をあげたかった。彼女の腕をとらえたかった。がその動作はかえって彼女に発射の決心を決めさせはすまいかと恐れた。彼の耳にはもう何にも聞こえなかった。彼は意識を失っていた……。唸《うな》り声……。彼は身を起こした。見るとアンナは、恐怖に顔の相好《そうごう》をくずしていた。ピストルは寝床の上に彼女の前に落ちていた。彼女は訴えるように繰り返していた。
「クリストフ!……弾《たま》が出ません!……」
彼は武器を取り上げた。長く忘れられてたために錆《さ》びていた。しかし作用が狂ってはいなかった。おそらく弾薬が空気のためにいけなくなってたのだろう。――アンナはピストルのほうへ手を差し出した。
「もうたくさんです!」と彼は嘆願した。
彼女は命令した。
「弾《たま》を!」
彼は弾を渡した。彼女はそれを調べて、中の一つを取り、なお震えつづけながら装填《そうてん》し、ふたたび武器を胸にあてがい、そして引き金を引いた。――やはり発射しなかった。
アンナは室の中にピストルを投げ出した。
「ああ、あんまりだ、あんまりだ!」と彼女は叫んだ。「死ぬことも許されない!」
彼女は夜具にくるまってもがいた。気が狂ったかのようだった。彼は彼女を抱き寄せようとした。彼女は声をたてて押しのけた。しまいに神経の発作に襲われた。彼はそのそばに朝までついていた。彼女もついに気が静まった。しかし息もつかず、眼は閉じ、額や顳※[#「需+頁」、第3水準1−94−6]《こめかみ》の骨には、蒼白《そうはく》な皮膚が張りつめていた。あたかも死人のようだった。
クリストフは、乱れた寝床を直し、ピストルを拾い上げ、もぎ取った錠前を取り付け、室の中をすっかり片付けて、そこを去った。なぜなら、もう七時になっていて、ベービがやって来るころだった。
ブラウンはその朝もどってきて、同じ虚脱の状態にあるアンナを見出した。ただならぬことが起こったのをよく見てとった。しかしベービからもクリストフからも何一つ聞き出し得なかった。アンナは終日身動きもしなかった。眼も開かなかった。脈搏《みゃくはく》はほとんど感じられないくらいに弱かった。時とするとまったく止まってしまって、ブラウンは一時、心臓の鼓動がやんだのではないかと思って心配した。彼は情愛のために自分の学問をも疑いだした。同業者のところに駆けていって連れて来た。二人はアンナを診察したが、ある熱病の始まりであるかあるいはヒステリー的神経症であるかを、決定することができなかった。病人の容態を観察しつづけなければならなかった。ブラウンはアンナの枕頭を離れなかった。食事もしなかった。夕方になると、アンナの脈は熱の徴候を示しはしなかったが、極度の衰弱を示してきた。ブラウンは牛乳を数|匙《さじ》彼女の口に入れてみた。彼女はそれをすぐに吐いてしまった。彼女の身体はこわれた人形のように夫の腕の中にぐったりしていた。ブラウンは彼女の様子に耳を傾けるためたえず立ち上がりながら、夜通しそばにすわっていた。ベービはアンナの病気にはほとんど心配しなかったが、義務観念の強い女だったから、寝るのを拒んでブラウンとともに起きていた。
金曜日にアンナは眼を開いた。ブラウンは話しかけた。彼女は彼がいることに気を止めなかった。じっと動かないで、壁の一点を見つめていた。午《ひる》ごろブラウンは、彼女の痩《や》せた頬《ほお》に太い涙が流れるのを認めた。彼はそれを静かに拭《ふ》いてやった。涙は一滴ずつ流れつづけた。ブラウンはふたたび彼女に何か食物を取らせようとした。彼女はただぼんやりとそれに従った。晩になって、彼女は口をききだした。連絡のない言葉ばかりだった。ライン河のことが出た。彼女は河に溺死《できし》したがっていたが、十分の水がなかった。執拗《しつよう》に自殺の企てばかりを夢みつづけて、奇怪な死に方をいろいろ想像した。でもやはり
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