死ぬことができなかった。時とするとだれかと議論をした。そんなとき顔は憤怒《ふんぬ》と恐怖との表情を帯びた。彼女は神に話しかけて、罪は神にあるのだと強情に主張した。あるいは情欲の炎が眼に燃えてきた。そして自分でも知らないような淫猥《いんわい》な言葉を発した。ふと彼女はベービを認めて、翌日の洗濯《せんたく》についてはっきり用を言いつけた。夜中に彼女はうとうとと眠った。そして突然身を起こした。ブラウンは駆け寄った。彼女は気忙《きぜわ》しない片言をつぶやきながら、彼を不思議そうにながめた。彼は尋ねた。
「アンナ、なんだい?」
 彼女は荒々しい声で言った。
「あの人を連れてきてください。」
「だれを?」と彼は尋ねた。
 彼女はなお同じ表情で彼をながめたが、突然笑い出した。それから額に両手をあてて唸《うな》った。
「ああ、神様、忘れさして!……」
 彼女はまた眠った。夜が明けるまで静かにしていた。明け方に少し身体を動かした。ブラウンはその頭をもち上げて、飲み物を与えた。彼女は幾口かをすなおに飲み下した。そしてブラウンの手のほうへかがみ込んで、それを抱擁した。それからふたたびうとうととした。
 土曜日の朝、彼女は九時ごろに眼を覚《さ》ました。一言もいわずに両足を寝床から出して、下に降りようとした。ブラウンは走り寄って、彼女を寝かそうとした。彼女は強情を張った。どうしたいのかと彼は尋ねた。彼女は答えた。
「礼拝に行くのです。」
 彼はいろいろ言いきかせ、今日は日曜日ではないから寺院は閉まってると言った。彼女は口をつぐんだ。しかし寝台のそばの椅子《いす》にすわって、うち震える指で着物をひっかけた。ブラウンの友人である医者がはいって来た。彼もブラウンに口を添えて説き聞かせた。それから彼女が譲歩しないのを見て、彼女を診察し、ついに承諾した。彼はブラウンをわきに呼んで、細君の病気はまったく精神的のものらしいから、当分その意に逆らってはいけないし、ブラウンがついて行きさえすれば、外出しても危険はないと思う、と言った。それでブラウンは自分もいっしょに行こうと彼女に言った。彼女はそれを拒んで一人で行きたがった。しかし室の中を歩き出すや否やつまずいた。すると一言もいわずにブラウンの腕を取って、二人で出かけた。彼女はたいへん弱っていて、途中でよく立ち止まった。帰りたいのかと彼は何度も尋ねた。すると彼女はまた歩き出すのだった。教会堂へ着くと、彼が言ったとおりに扉《とびら》は閉《し》まっていた。彼女は入り口のそばの腰掛にすわって、十二時が打つまで震えながらとどまっていた。それから彼女はまたブラウンの腕を取って、二人で黙々として帰ってきた。しかし夕方になると、彼女はまた教会堂へ行きたがった。ブラウンがいくら懇願しても駄目だった。また出かけなければならなかった。
 その二日間を、クリストフは一人きりで過ごした。ブラウンはあまりに心配していたから、彼のことを頭に浮かべなかった。ただ一度、土曜日の朝、アンナの外出したいという一図な考えを紛らせようとして、クリストフに会ってみないかと尋ねたことがあった。すると彼女は激しい恐慌《きょうこう》と嫌悪《けんお》との表情をしたので、彼はびっくりしてしまった。それからはもうクリストフの名前は口に出されなかった。
 クリストフは自分の室に閉じこもっていた。不安、愛着、悔恨、すべて渾沌《こんとん》たる悩みが、心のうちでぶつかり合った。彼は万事について自分をとがめた。自己嫌悪の情に圧倒された。幾度も彼は立ち上がって、ブラウンへいっさいを告白しに行こうとした――がすぐに、自分をとがめることでさらにも一人の男を不幸にするという考えから引き止められた。と同時にまた情熱からも脱せられなかった。彼はアンナの室の前の廊下をうろついた。そして扉《とびら》に近づく足音が室の中に聞こえるや否や、自分の室に逃げていった。
 ブラウンとアンナとが午後に外出したとき、彼は自分の室の窓掛の後ろに隠れて、二人を窺《うかが》った。彼はアンナを見た。いつもあんなに身体をつんとして高振っていたアンナが、背をかがめうなだれて黄色い顔色になっていた。すっかり年をとって、夫にきせてもらった外套と肩掛との重みに堪えかねていた。醜くなっていた。しかしクリストフは彼女の醜さを見ないで、その惨《みじ》めさばかりを見てとった。そして彼の心は憐憫《れんびん》と愛情とで満ちあふれた。彼女のところへ駆けてゆき、泥《どろ》の中にひれ伏し、彼女の足に、情熱のため害されたその身体に、唇《くちびる》を押しあて、彼女の許しを乞《こ》いたかった。そして彼は彼女をながめながら考えた。
「俺《おれ》の仕業は……あのとおりだ!」
 しかし彼の眼は、鏡の中で自分自身の面影に出会った。そして自分の顔立ちの上に、同じ荒
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