て何にも言えなかった。そういう敵にたいしては武器がなかった。彼はただ盲目的な憤怒《ふんぬ》を感じ、打ちのめしたい欲望を感じた。彼は言った。
「なぜベービを追い出さなかったんですか。」
彼女は蔑《さげす》んで答えなかった。ベービは追い出されたら、大目に見られてるときよりもさらに有害となるはずだった。クリストフも自分の問いの無意味なのを悟った。彼の考えはたがいにぶつかり合っていた。彼は取るべき一つの決心を捜し求め、一つの直接行動を捜し求めた。彼は両の拳《こぶし》を握りしめて言った。
「彼奴《あいつ》らを殺してやる。」
「だれを?」と彼女はその無駄な言葉を軽蔑《けいべつ》して言った。
彼は力もぬけてしまった。朦朧《もうろう》たる陰謀の網にとらえられるのを感じた。そこでは何一つはっきりとらえることができないし、しかもすべての人が陰謀の仲間だった。
「卑怯《ひきょう》な奴らが!」と彼はがっかりして叫んだ。
彼は寝台の前にひざまずき、アンナの身体に顔を押し当てて、がっくりとなった。――二人は口をつぐんだ。彼女を守ってくれることも自分自身を守ることもできないこの男にたいして、彼女は軽蔑と憐憫《れんびん》との交じり合った気持を覚えた。彼は自分の頬《ほお》に、アンナの膝《ひざ》が寒さに震えるのを感じた。窓は開かれたままになっていて、外は冷え凍えていた。鏡のように澄みきった空に、冷たい星のおののくのが見えていた。
彼女は自分と同様にくず折れた彼を見て悲痛な喜びを味わったのち、疲れたきびしい調子で言った。
「蝋燭《ろうそく》をつけてください。」
彼は火をともした。アンナは両腕を胸にくっつけ頤《あご》の下に膝を折り曲げて、じっとうずくまりながら、歯をがたがたさして震えていた。彼は窓を閉めた。寝室の上に腰をおろした。氷のように冷たくなってるアンナの足先を両手に取って、それを口や手で温めてやった。彼女は心を動かされた。
「クリストフ!」と彼女は言った。
彼女は悲しげな眼をしていた。
「アンナ!」と彼は言った。
「どうしましょう?」
彼は彼女をながめて言った。
「死にましょう。」
彼女は喜びの声をたてた。
「ああ、あなたはほんとにそうしたいんですか、あなたもそうしたいんですか?……私一人じゃありませんのね!」
彼女は彼を抱擁した。
「では私があなたを打ち捨てるとでも思っていたんですか。」
彼女は低い声で答えた。
「ええ。」
彼は彼女がどんなに苦しんだろうかを感じた。
しばらくして、彼は眼つきで彼女に尋ねかけた。彼女はその意を悟った。
「机の中です。」と彼女は言った。「右のほう、下の引き出し……。」
彼はそこへ行って捜した。引き出しの奥に一|挺《ちょう》のピストルが見えた。それはブラウンが学生時代に買ったもので、かつて使われたことがなかった。クリストフはこわれた箱の中に、数個の弾《たま》を見出した。彼はそれを寝台のところへもって来た。アンナはそれを見て、すぐに壁の裾《すそ》のほうへ眼をそらした。クリストフは待った。それから尋ねた。
「もう嫌《いや》ですか。」
アンナは急に振り向いた。
「いいえ……早く!」
彼女はこう考えていた。
「もうこうなっては、私を永遠の淵《ふち》から救い出してくれるものは何もない。どちらにしても同じことだ。」
クリストフは無器用な手付きでピストルに弾をこめた。
「アンナ、」と彼は震える声で言った、「どちらかが一人の死ぬのを見ることになります。」
彼女は彼の手から武器を引ったくって、利己的に言った。
「私が先に。」
二人はなお見合った……。ああ、おたがいのために死のうとするこの間ぎわになっても、二人はたがいに遠く離れてる気がした!……どちらも慴《おび》えた考えをしていた。
「いったい私は何をしてるのか、何をしてるのか。」
そしてどちらも相手の眼の中にそれを読みとった。その行為のばかばかしさは、ことにクリストフの心を打った。全生活は無益に終わった。奮闘も無益、苦しみも無益、希望も無益だった。すべてが空費されて風に投げ捨てられた。つまらないちょっとした動作で、いっさいが消し去られようとしていた。……尋常の状態にあったら、彼はアンナの手からピストルをもぎ取り、それを窓の外に放り出し、こう叫んだであろう。
「いえいえ、私は嫌《いや》です。」
しかし、八か月間の苦しい悩みと疑惑と哀悼と、なおその上に、狂乱した情熱の突風とは、彼の力を滅ぼし彼の意志をくじいていた。彼はもうどうにも仕方ない気がし、もう自分で自分が自由にならない気がしていた……。ああ、結局、どうだって構うものか!
アンナは永遠の死を確信していて、自分の一身を生命の最後の瞬間の手に委《ゆだ》ねていた。揺《ゆ》らめていてる蝋燭《ろうそく》の火に輝ら
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