、いつもの滑《なめら》かな冷たい床板の感触ではなしに、柔らかにつぶれる生暖かい塵《ちり》を感じた。彼女は身をかがめて、手でさわってみてそれと悟った。細かな灰が薄《うっ》すらと、二、三メートルの間廊下じゅうにまいてあった。それはベービの仕業であって、ブルターニュの古詩の中で、イズーの寝床にやってゆくトリスタンをとらえるために、小人のフロサンが用いたあの古い策略を、知らず知らず考えついたのだった。善《よ》いことにも悪いことにも、ある少数の見本があらゆる時代に役だつというのは、なるほど真実である。それこそ、世界の賢い経済を示す大なる証拠である。――アンナは少しもためらわなかった。一種の軽蔑《けいべつ》的な豪《えら》がりからやはりつづけて足を運んだ。クリストフの室にはいっても、不安ではあったがなんとも言わなかった。しかし帰りに、彼女は暖炉の箒《ほうき》を取って、通り過ぎたあとで灰の上の足跡を丁寧《ていねい》に消し去った。――その朝アンナとベービとが顔を合わせたとき、一人は例の冷やかな様子をし、一人は例の微笑を浮かべていた。
 ベービのもとへはときどき、彼女より少し年上の親戚《しんせき》の男が訪ねてきた。彼は寺院で番人の役目をしていた。勤行《ごんぎょう》の時間には、柄の曲がった籐杖《とうづえ》にもたれて、黒い線と銀の総《ふさ》のある白い腕章をつけ、教会堂の入り口に見張りをしてる、彼の姿が見受けられた。彼の職業は棺桶《かんおけ》屋で、ザーミ・ヴィッチという名前だった。ごく背が高く、痩せていて、頭を少しかがめ、老農夫みたいな真面目《まじめ》な無髯《むぜん》の顔だった。彼はごく信心深かった。そして教区内のあらゆる人の魂についての風説を、ほとんど一つ残らずことごとく知っていた。ベービとザーミとは結婚するつもりでいた。二人はたがいに相手のうちに、真面目な美点や堅固な信仰や悪賢さなどを見てとっていた。しかし彼らは急いできめてしまおうとはしなかった。たがいに用心深く観察し合っていた。――最近にザーミの来訪はいっそう繁《しげ》くなってきた。彼は人に知られないうちにはいって来た。アンナが台所の近くを通りかかるといつも、炉のそばにすわってるザーミと、その数歩わきで仕事をしてるベービとが、ガラス越しに見えていた。二人がいくら話をしようと、少しもその声は他へ聞こえなかった。ベービの陽気な顔と動いてるその唇《くちびる》とが見えていた。ザーミの鹿爪《しかつめ》らしい大きな口は少しも開かずに、苦笑の皺《しわ》を寄せていた。喉《のど》からは少しも声が漏れなかった。まるで沈黙の家のようだった。アンナが台所へはいってゆくと、ザーミは恭《うやうや》しく立ち上がって、彼女が出て行くまで黙ってつっ立っていた。ベービは扉《とびら》の開く音を聞いて、わざとらしく無駄《むだ》話をぷっつりよして、追従《ついしょう》の笑顔をアンナのほうへ向けながら、彼女の言いつけを待った。アンナは二人が自分の噂《うわさ》をしてたのだと思った。しかし彼女は二人をあまりに軽蔑していたので、その話をぬすみ聞きするような卑しい真似《まね》はしなかった。
 巧妙な灰の罠《わな》を失敗に終わらせた翌日、アンナが台所にはいっていって、第一に眼についたものは、前夜素足の足跡を消すために用いた小さな箒《ほうき》が、ザーミの手にもたれてることだった。彼女はその箒をクリストフの室から取ってきたのだった。そして今になって初めて、もちもどることを忘れてたのに突然気づいた。それを自分の室に打ち捨てておいたのだった。ベービの鋭い眼はすぐそれを見てとった。そして二人の陰謀仲間は、事のわけを組み立てずにはおかなかった。がアンナはつまずかなかった。ベービは女主人の視線を見守りながら、大袈裟《おおげさ》に微笑《ほほえ》んで、言い訳をした。
「その箒はこわれておりました。でザーミに渡して直してもらうことにいたしました。」
 アンナはその太々しい嘘《うそ》を取り上げようともしなかった。聞こえたふうさえしなかった。ベービの仕事振りをながめ、注意を与え、そして平然と出ていった。しかし扉を閉めると、すっかり自負心を失った。廊下の角に隠れて耳をそばだてざるを得なかった。――(そんな手段を用いるのがつくづく恥ずかしかった……。)――ごく短い忍び笑いの声、それから、何にも聞き分けられないほど低い耳語。しかしアンナは頭が乱れていたので、聞き分けられるような気がした。恐怖のあまりに、聞くのを恐れていた言葉が伝わってきた。来たるべき仮面仮装や馬鹿騒ぎのことを二人が話してるのだと、彼女は想像をめぐらした疑いの余地はなかった。二人は灰の話をもち出すつもりに違いなかった……。それは多分彼女の考え違いだったろう。しかし彼女は二週間以来不面目という固定観念につきまとわれて
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