、病的な激昂《げっこう》に陥っていたので、単に不確実を可能だと考えるだけにとどまらなくて、不確実を確実だとまで見なしたのだった。
そのときから、彼女の決心は固められた。
その日の晩――(謝肉祭肉食日の前の水曜日だった)――ブラウンは町から二十キロ離れた所に、診察に呼ばれていった。翌朝でなければ帰って来られなかった。アンナは夕食に降りて行かずに、自分の室に残った。誓っていた暗黙の約束を実行するのに、その夜を選んだのだった。けれども、クリストフへは何にも言わないで、一人で実行しようと決心した。彼女は彼を軽視していた。こう考えていた。
「あの人は約束した。けれど、あの人は男で、利己主義で嘘《うそ》つきで、自分の芸術をもっているし、すぐに忘れてしまったろう。」
それにまたおそらく、温情なんかはなさそうに見える彼女の激烈な心の中にも、友にたいする憐れみの情を起こす余地があったであろう。ただ彼女はあまりに粗剛であまりに熱烈だったから、それをみずから認めていなかったのである。
ベービは、奥様からよろしく言ってくれと頼まれたことだの、奥様が少し加減が悪くて休息したがってることだのを、クリストフに言った。それでクリストフは、ベービの監視のもとに一人で夕食をした。ベービはその饒舌《じょうぜつ》で彼をうんざりさした。彼に口をきかせようとしていた。他人の誠意を信じやすいクリストフでさえ、ある疑念を起こしたほどの過度の熱心さで、アンナに味方して滔々《とうとう》と述べたてた。クリストフもちょうどその晩を利用して、アンナと決定的な話をつけるつもりだった。彼もこのうえ延ばすことはできなかった。あの悲しい日の夜明けにいっしょにした約束を、忘れてはいなかった。アンナから求められたそれを果たすつもりでいた。しかしそういう二重の死のばかばかしさを見てとっていた。それは何事をも解決しはしないし、その悲しみと不名誉とはブラウンの上に及んでくるに違いなかった。もっともよい方法は、二人がたがいに別れることであり、自分がも一度立ち去ってみる――少なくとも彼女と離れているだけの力があるならば、立ち去ってみることである、と彼は考えた。無益な試みをやってみたあとのこととて、それができるかは疑わしかった。しかし、もしも堪え得ない場合には、だれにも知れないようにして、一人で最後の手段に訴えるだけの隙《ひま》は常にある、と彼は考えた。
彼は夕食のあとに、ちょっと逃げ出して、アンナの室へ上がって行きたかった。しかしベービは彼のそばを離れなかった。平素彼女は早めに仕事を終えるのだったが、その晩はいつまでも台所の後片付けを終えなかった。そしてクリストフがもう彼女からのがれたと思ってると、彼女はアンナの室に通じる廊下に、戸棚《とだな》をすえつけることを考え出した。クリストフは彼女がどっしりと腰掛に落ち着いてるのを見た。一晩じゅう動きそうもないのを悟った。彼女を積み重ねられた皿《さら》といっしょに投げ出したい気が、むらむらと起こってきて仕方なかった。しかし彼は我慢をした。奥様の様子はどうであるか、挨拶《あいさつ》をしに行くことはできまいか、それを見に行ってくれと願った。ベービはやって行き、もどってきて、意地悪い喜ばしさで彼を見守りながら、奥様の気分はよいほうであるが、眠りたいからだれも来てくれるなとのことだった、と言った。クリストフはむっといらだって、読書をしてみたが、それもできないで、自分の室に上がっていった。ベービは燈火が消えるまで窺《うかが》っていて、寝ずの番をしてやろうと誓いながら自分も室に上がっていった。家じゅうの物音が聞こえるように、扉《とびら》を半ば開いておくだけの注意までした。しかし悲しいかな彼女は、寝床にはいるとすぐに眠った。しかもその眠りは、夜が明けない限りは、雷が鳴ろうとまたいかに好奇心が強かろうと、なかなか覚《さ》めそうもないほど深いものだった。その眠りはだれにも知れずにはいなかった。鼾《いびき》の音が階下までも響いていた。
クリストフはその耳|馴《な》れた音を聞くと、アンナのところへやって行った。彼女に話をしなければならなかった。彼は一種の不安に駆られていた。扉のところまでいってその把手《とって》を回した。扉は締めきってあった。彼は静かにたたいた。返辞がなかった。彼は錠前に口を押し当てて、低い声で頼み、つぎにはしつこく頼んだ。なんの動きもなければ、なんの音もしなかった。アンナは眠ってるのだといくら考えても、ある心痛にとらえられた、そして中の様子を聞き取ろうといたずらにつとめながら、扉《とびら》に頬《ほお》をつけていると、敷居のところから漏れてくるらしいある臭気に打たれた。彼は身をかがめてそれを嗅《か》ぎ分けた。ガスの臭《にお》いだった。彼の血はぞっと凍った。
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