は解放された。魂の奥底に積もってるすべてのもの、嫉妬《しっと》、ひそかな憎悪、不純な好奇心、社会的動物に固有な悪意の本能などが、意趣返しの喜びをもって一度に騒然と爆発した。各人が往来へ飛び出し、用心深い仮面をつけて、広場のまん中で、嫌《いや》な奴を晒《さら》し台に上せ、気長な努力で一年間に知り得たすべてのことを、一滴一滴よせ集めた醜悪な秘密の宝全部を、通行人に見せつけてはばからなかった。ある者は車の上から大袈裟《おおげさ》に触れ歩いた。ある者は町の内緒話を文字や絵に書き現わした透かし燈籠《どうろう》を、方々へもち回った。ある者は敵の仮面をさえつけていて、しかもその仮面がすぐに見分けられるほどだったから、町の餓鬼小僧どもはその実名を名ざすことができた。幾つもの悪口新聞が、その三日の間に現われた。社交界の人々も多少、この諷刺《ふうし》の悪戯《いたずら》にこっそり関係していた。なんらの取り締まりも行なわれていなかった。ただ政治に関する事柄は例外だった――というのは、その辛辣《しんらつ》な自由の振る舞いが、町の当局者と他国の代表者らとの間に、何度も紛擾《ふんじょう》の原因となったからである。しかし町の人にたいして町の人を保護するものは何もなかった。そして、たえず眼前にぶら下がってる公然の侮辱という懸念は、この町がみずから誇りとしてる清浄潔白な外観を風俗中に維持するのに、多少役だたないでもなかった。
 アンナはそういう恐れの重みに圧倒されていた――しかもそれは条理の立たない恐れだった。彼女は恐るべき理由をあまりもってはいなかった。彼女は町の世論の中ではほとんど物の数でなかったので、彼女を攻撃しようとの考えを起こす者すらないはずだった。けれども彼女は、全然の孤独の中に引きこもってばかりいたし、また不眠の数週間を過ごしたため、心身は疲憊《ひはい》し神経は荒立っていたので、きわめて不道理な恐怖をも想像しがちになっていた。彼女は自分を好まない人々の憎悪を大袈裟《おおげさ》に考えていた。人々から嫌疑《けんぎ》をかけられてると思っていた。ちょっとしたことで身の破滅となるに十分だった。そんなことはないと言ってくれる者はだれもいなかった。もう侮辱ばかりであり、無慈悲な探索ばかりであり、通行人の眼前に裸の心をさらされるばかりだった。その残酷な不名誉は、思っただけでも恥ずかしくてたまらなかった。人の話によると、数年前にある若い娘が、そういう迫害をこうむって、家の者と共にこの土地から逃げ出さなければならなかったそうである……。そしてどうすることもできなかった。弁解することも、事を未然に防ぐことも、どうなるかを知ることさえも、少しもできなかった。疑いは確実よりもいっそういらだたしいものだった。アンナは追いつめられた獣のような眼であたりをながめた。そして自分の家においてさえ、四方から監視されてることを知った。
 アンナの女中は、四十歳を越した女で、ベービという名だった。背が高く、強壮で、その顔は、顳※[#「需+頁」、第3水準1−94−6]《こめかみ》や額のほうは狭くて痩《や》せ、下の方は広く長く、頤《あご》の下が脹《は》れていて、ちょうど干乾《ひから》びた梨《なし》のようだった。いつも微笑を浮かべていたが、睫毛《まつげ》の隠れてる赤い眼瞼《まぶた》の下の眼は、深く落ちくぼんで錐《きり》のように鋭かった。気取った快活さの表情をやめたことがなく、いつも主人を喜んでおり、いつも主人と同意見であり、やさしい心づかいで主人の健康を尋ねた。用を言いつけられるときも微笑《ほほえ》んでいるし、小言を言われるときも微笑んでいた。ブラウンは彼女を徹頭徹尾忠誠な女中だと思っていた。彼女の平和な様子はアンナの冷やかさと対照をなしていた。それでも多くの点で彼女はアンナに似寄っていた。アンナと同様に、口数がきわめて少なく、注意を配ったきちんとした服装をしていた。アンナと同様に、きわめて信心深く、いつも礼拝の御供をし、信仰上の務めを正確に果たし、家事の務めに細々《こまごま》と気を配っていた。清潔で時間をよく守り、風儀や料理にかけては欠点がなかった。一言にして言えば、模範的な女中であって、かつ、家庭の害物の完全な標本だった。女性の本能からして女の内心の考えをほとんど見誤ったことのないアンナは、この女中になんらの幻をもかけてはいなかった。二人はたがいに嫌《きら》い合い、嫌い合ってることを知っており、しかもそれを少しも様子に示さなかった。
 クリストフがもどってきたその晩、アンナはもうけっして彼に会うまいと決心していたにもかかわらず、悩みに堪えかねて彼のもとへやって行ったとき、暗闇《くらやみ》の中に壁を手探りでこっそり歩を運んだ。そしてクリストフの室にはいりかけると、自分の素足の蹠《あしのうら》に
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